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youth004 若者はどんな情報が欲しいのか -現代若者の意識と情報行動を探る-

 いまご紹介にあずかりましたように、私は社会に出たのが20年ちょっと前なのですが、基本的にずっとマーケティングや調査、コンサルティングの仕事をやってまいりました。 最初に入ったのがパルコで、マーケティングの雑誌をつくっていましたが、若い人のライフスタイルや消費行動といった調査を多く行いました。三菱総研に入ってからは、あまり若者の調査などはやらなかったのですが、辞めてから、また団塊ジュニアや、今日も話題になります二十代ぐらいの若者の価値観や消費行動を調査する仕事を主にしております。

 ということで、今日は、協会からも、新聞に限らず、私がおつき合いしているほかの業界の話も含めて、若い人の話をしてくれということでしたので、一般的にいま若い人がどんな価値観で動いているのかというあたりのお話ができればと存じます。

 さて、私は今日も朝、読売新聞の来年の年間企画の取材を受けてきたばかりで、先週は毎日新聞の「エコノミスト」の取材を受け、先々週はたしか朝日新聞に原稿を書かせていただいたのですが、そういうように日々新聞社の取材を受けることはたくさんあります。パルコの時からそういう取材を受けることが多いのですが、自分でどんなにすばらしい記事を書いたと思っても、顔写真が載っていないと、だれも読まないのです。私の周りの人間から、「あ、三浦さん、この前出てたね」と言われるのは、顔写真が出ている時なのです。それですと、けっこう小さなコラムのような記事でも見る方が多いのですが、わりと大きな記事で、自分でもいい原稿を書いたつもりでも、顔写真が載っていないと、「見たよ」と言われることが全くありません。ということは、新聞というのは、「忙しいから記事はなかなか読まないけれど、見出しぐらいはチェックする」などと申しますが、最近は、実は見出しもあまり見ていないのではないかと疑わしく思っています。

 私のおつき合いする方は、それなりの会社のそれなりの方です。調査部とかマーケティングとか、大学の先生もおられますから、いまの読者の平均からいいますと、毎日ちゃんと新聞は読んでいる方のはずなのですが、そういう方であっても、見出しだけチェックというところまでもいかず、知っている人の顔写真が出ていれば、ちょっと目に入るというような状況かと思うのです。

 ましてや若者一般となれば、もちろん私の顔を見てもだれも分からないわけですが、なかなか新聞を読みません。私がアルバイトで使っている学生でも新聞を取っていません。何で取らないんだと言うと、ゴミが出ると言う。1か月ためたら相当かさばりますから、あれがどうも嫌なようです。

 最近の若者は、電車の中で物を食べたり化粧をしたり、歩きながら食べたりします。私は、若者を調査するのが仕事ですから、歩きながら食べたり、電車の中で食べたりすることについても、この夏調査をしました。その結果を見ますと、みんな「忙しいから仕方がない」「忙しいから、どうしても歩きながらでも食べてしまうんだ」と答えています。そういう彼らが感覚的にどうもこれは嫌だと言うのは何かと聞きますと、電車で新聞を読むことなのです。「あんな満員電車の中で新聞を広げて読んでいるなんて信じられない」と言うわけです。電車の中で化粧をしたり物を食べたりしている人間、これはわれわれ以上の世代から見れば、何ともはしたないと思うのですが、逆に彼らから見ると、食べるのは仕方がない、新聞読むのは邪魔くさいと思っているようで、かくのごとく世代の価値観の差は大きいと思う次第です。
 
<1955年体制と2005年体制の対比>
 前置きはこれくらいにして本論に入ります。まず、「2005年体制」というお話です。今日は新聞の方ですから、説明するまでもないことですが、55年体制というのは、いまの自由民主党が、本来自由党と民主党だったのが、保守合同をして自由民主党になったというのが55年の出来事で、以後、政治学の世界で自民党の一党体制を55年体制と呼ぶわけです。この55年体制は経済面でいえば、高度経済成長期に当たり、私の専門である消費やマーケティングの世界でいえば、大衆消費社会がどんどん拡大していく時代であったわけです。

 自民党の一党体制という意味では、93年の細川内閣で55年体制は終わったわけですが、経済的な意味や社会的な意味を考えますと、それ以後も55年体制は続いてきたかと思うのです。が、いよいよそれが本当に本格的に終わりそうだ。55年から50年たって2005年から全く新しい時代になっていくと言えるのではないか。そう考えて私が造語をした言葉が、「2005年体制」であります。

 もちろん2003年から変わろうと、2008年から変わろうと、どうでもいいのですが、この55年体制的なパラダイムが完全に転換しつつあり、それを象徴的にいえば2005年体制であると考えているわけです。
 そのへんことは、『これからの10年』という本に書いておりますので、ぜひお読みいただきたいと思います。

 この55年体制は、自民党の政権下で、高度経済成長、アメリカ型の大衆消費社会を目指す時代でありました。言いかえると、稼いだ富を一部の資本家階級、支配階級だけが独占するのではなくて、中流社会をつくって幅広い中流階級に分配していく。こういう富の平等な分配の社会、中流化を目指した社会であるということもできるわけです。これはアメリカ型社会の言い換えですが、こういう中流化の流れの中で、今日のテーマである新聞というものも売れてきたと思うのです。
 また55年体制の中は、もちろんみんな頑張って働いたから経済が成長したということもありますが、そもそも人口が増える時代でもあったということです。また世帯も増える時代であり、その世帯というものが若い標準世帯、お父さんとお母さんと子供からなる若い核家族世帯であったということです。かつ、そういう世帯が都市に集中して都市で新しい暮らしを始めて、そこで冷蔵庫も買う、洗濯機も買う、新聞も取る、という形で新しいライフスタイルの中に新聞というものも組み込まれていったのではないかと考えるわけです。

 ところが、これからの社会は、もうあまり成長していく必要がない。国民の間にも、もちろん不景気は脱してほしいかもしれませんが、どんどんまだ欲しいものがある、買いたいものがあると言って、そういう意味で経済成長を求める時代ではなくて、非常に成熟化を求める時代になっていますし、飢餓と貧困から抜け出すために物質的な生活水準を向上していきたいということではなく、いまある豊かさを維持していけばいい、それよりも来たりくる高齢社会や、いろいろな不安に対して不安感がありますので、何とか安心感を保障したいという価値観が強まっている時代かと思われます。

 これは内閣府の「国民生活選好度調査」などを見ても明らかで、特にこの5年ぐらいの変化を見ますと、いまある生活を守りたいという意識が非常に強まっているわけです。それと並行して、みんなが貧乏で、みんなで中流になろうという時代ではなくて、もうあらかじめみんな中流ですから、そういう中でこれからは多少の階層化は仕方がないという価値観も出てきています。これも「国民生活選好度調査」を見ても明らかで、いまの社会がまだまだ平等ではなく、いろいろな面で格差というものがあると認識している人は増えているのですが、他方で、その格差をなくすことが政策的な課題であるべきだと言う人も減っています。

 つまり、格差が広がっているのは実感していますが、それを一生懸命政治が縮めようとする必要はあまり感じていないという傾向が出ている。ある程度差が広がるのは仕方がないと、こんなにみんな平等なんだから、多少いまより広がってもいいという価値観が出ているように読み取れるデータもあります。

 そういう中では、みんなが中流であることを目指すことにあまり価値はなくて、むしろ自分にとって最適な生活、最適な消費、暮らし、そういうものを求めます。UFJ総研の方ではないですが、「年収300万円時代を楽しく生き抜く」みたいな価値観もあるわけです。みんなで平均して700万円、800万円、あるいは1,000万円の所得を目指すということが良しとされた時代があったわけですが、私は300万円でも自分にふさわしい暮らしができるならそれでいいと思うわけです。もちろん2,000万円が私にとって最適だと言う人はそれを目指してください、ベンチャー企業に投資でもしてどんどん創業者利得でもうけてくださいと、上のほうに広がる分に関しては下の人はあまり文句は言いません。もちろんそのセーフティーネットは必要ですが、それによって守られている限りは、上に行きたい人が行く分には全然構わない。私も一緒に上に行こうとは思いません、いまの暮らしでもいいです、多少落ちても何とかなります、ということではないかと思われます。 

<55年体制は人口の増加期 2005年体制は減少期 >
 人口面で見ても、皆さんご存じのとおり、2006年をピークとして日本の人口は減り始めます。みんなが頑張って一生懸命働いたから経済が伸びたのは間違いないのですが、そもそもマーケットの基本は人口ですから、人口がどんどん減っていくのに売り上げが伸びるというのは、これは大変なことですが、これまでは人口が伸びる時代でした。1920年から1950年にかけて日本の人口は2,000〜3,000万人増えました。55年は約9,000万人、それからこれまで50年かけて3,600万人ぐらい増えて、現在1億2,700万人ぐらいです。これがまた50年たちますと、2050年から55年というあたりですと、中位推計で1億人、大体この人口問題研究所の調査は低位推計が当たるという経験則がございますので、それで見ますと9,200万人ということで、50年かけて9,000万から1億2,700万まで増えたのが、また50年かけて9,000万に逆戻りという時代になるわけです。つまり、55年体制は人口の増加期であり、2005年体制は人口の減少期に当たるという非常にきれいな図が描けるわけです。 

<生産年齢人口はすでに減少>
 また生産年齢人口についても、より美しい富士山を描いているわけで、すでに95年をピークに生産年齢人口が減っております。
 生産年齢人口というのは、言うまでもなく15歳から64歳、働こうと思えば働ける年齢の人口です。実際はこんなに働いていないので、学生も主婦も失業者もいるわけで、実際働いているのは、いま6,800万人ぐらいでしょうか。ですから、もっと少ないのですが、いずれにしろこの生産年齢人口も、50年は5,000万人しかいませんでした。これが今は9,000 万人近くまで増えたのが、2050年はまた5,000 万人ぐらいまで減っていきます。
 新聞の購読なども、生産年齢人口が減るということは、大変大きな影響を及ぼすだろうと思います。

 これは、自動車も家も家電製品も何でも同じです。人口が増えることで、そもそも市場のパイが拡大して、その拡大するパイの中でシェアを増やせばますます売り上げが伸びるということだったと思うのですが、新聞も一つの商品として見ますと同じことで、人口が増える中で世帯もまた増えるという中で拡販できたのかと思います。 

<標準世帯が減る>
 新聞といいますと、人口というより世帯になると思うのですが、55年以降の世帯数を家族類型別に見ますと、夫婦と子供からなるいわゆる標準世帯(または核家族)が55年には750万世帯しかいませんでした。これが80年には1,500万世帯に倍増しています。片親と子供の世帯は、55年から80年にはほとんど増えていません。その他(3世帯同居などの昔ながらの大家族も含む)も、当然増えていません。夫婦のみ世帯は若い世帯を中心にやや増えました。昔の統計は取り方が違うと思いますが、単独世帯(一人暮し)は55年から70年あたりはあまり増えていない。昔は、若い人は住み込みがほとんどでしたから、一人でアパートに暮らすというのは60年代後半にならないと、あまり出てこないわけです。

 このように55年体制というのは、世帯でいえば標準世帯が倍増した時代であると言えるわけです。標準世帯というのは、新聞購読という意味でも一番大きな意味を持った世帯だと思います。ところがこの標準世帯は、90年をピークに今後じわじわと減ってきて、2020年ぐらいになりますと1,300 万世帯を切るというところになります。

 逆に伸びますのは、片親と子供で、じわじわと増えております。これは離婚が増えて母子家庭が増えるという面もありますが、実際増えるのは高齢のパラサイトです。つまり、40歳の未婚の息子と70歳の母親のような世帯が増えるのです。
 3世帯同居などは、もちろんまだ減っていきます。高齢の夫婦のみ世帯がどんどん増え、高齢の単独世帯がどんどん増えるわけです。直近の人口問題研究所のデータですと、高齢化がもっと進行しますので、単独世帯と夫婦のみ世帯がもっと増えます。
 それでも世帯数が増えてくるからいいじゃないかと、2010年以降は世帯数も減りますが、まだあと数年は世帯数も伸びるじゃないかとおっしゃるかもしれませんが、ここで伸びる単独世帯は申すまでもなく、すでに新聞を取っていた世帯が夫婦のみから単独にかわっただけですし、ここで増える夫婦のみ世帯は、すでに新聞を取っていた高齢の核家族世帯が子供が独立して夫婦のみになるだけですから、新聞の部数が増える分母には全然ならないわけです。

 新聞の部数が増える分母になるのは、若い単独世帯と若い夫婦のみ世帯ともちろん若い標準世帯であります。若い新しく形成された世帯でないといけないわけです。いまパラサイトシングルといわれているように、若い単独世帯はあまり増えない状況にあります。若い夫婦のみ世帯は少し増えていますが、晩婚化の影響でそもそも結婚しないのであまり増えない。まして若い標準世帯は晩婚化に加えて少子化ですから、なかなか思ったとおり増えません。新聞を拡販する上での分母となるマーケットがそもそもなかなか増えない。第二次ベビーブームと呼ばれるいまの30歳ぐらいの人たちが最後の山で、ここでしっかり新聞を取ってもらわないと、後は若い人の人口も減るので、新しい顧客開拓のチャンス自体が永遠に減り続けるということになるわけです。

 このようなことから、新聞は大変な時代に差しかかっているわけですが、これは新聞だけではなく、家電も住宅も自動車も、私が日ごろおつき合いしている企業は全部この大問題にぶち当たります。最近の人は車に関心がないと言ってトヨタの人も日産の人も困っております。住宅メーカーの人は、最近の人は持ち家志向がないと言って困っています。賃貸でいいと言う人が多いのです。そもそも結婚して子供をつくってくれればいいけれど、それもしてくれないということで、困っています。結婚して子供もつくらない、家も持たないとなれば家電製品もなかなか買ってくれないということで、家電メーカーも困っています。まさに55年体制を担ってきた自動車、家電、住宅という日本の基幹産業が、みんなこういう時代の変化の中で困っているわけです。

考えてみると、新聞もまた、家電、自動車、住宅と同じように、55年体制とともに拡販してきた商品であり、したがって、2005年体制においては大変厳しい時代を迎えるということは当然です。
 そんなこと分かっているから解決策を教えろ、というのが今日の私の課題かと思うのですが、一応、皆さんのレベルに追いつくためにこのようなお話をしたわけです。 

<新聞は1955年体制のメディア>
 新聞は単なる商品と違って、いろいろな思想とか考えとか情報を載せる商品であり、どんな情報を載せてきたかというと、まさに政治学的な55年体制と直結するわけですが、朝日だったらちょっと左っぽいなとか、産経だったらちょっと右かな、というようなことを昔は言われたわけで、アメリカ型の資本主義体制を是とするか、修正資本主義か修正社会主義か分かりませんが、やや左がかった左翼的なものを良いとするか。そういう論争があったからこそ読まれてきたという面もあると思うのです。主にお父さんでしょうが、自分はどちらの立場に立つかということとも関係していた。平和志向で憲法は守りたい、あまり軍国主義とか経済一辺倒はごめんだよという人は朝日新聞を読むとか、やはり、アメリカと組んで資本主義体制を強めていこうという人は産経新聞を読むとか読売新聞を読むとか、こういう体制論争の中で新聞が買われていきました。父親、主に男性の思想的なあんちょことして読まれた面も否定できないと思います。もちろん日本経済新聞であれば日本株式会社の社内報でありますから、これを読んでおかないと会議もできないということで読まれた。

 同時に、よりマーケティング的に新聞を一つのコモディティー、日用商品としてとらえるならば、新聞もまた55年体制で国民が目指した中流家庭というものの中で一つのライフスタイルの必須アイテムになったという見方もできます。例えば大正時代に卓袱台(ちゃぶだい)というものが普及して、核家族の原型になる「家族」というものが非常に喧伝された時代があります。大正モダニズムの中でモダンな生活というものが日本人の新しいモデルになっていくわけです。ファッションのモボとかモガとか、銀座でぶらぶらするとか、三越で買物をして帝国劇場に行くというのが消費の面でのモダンライフですが、もう少し家庭の生活に目を向けると、卓袱台は大正時代の発明です。卓袱台を囲んでお父さん、お母さん、子供が朝きちんとごはんを食べて、そこでお父さんは当時ひげをはやしていて新聞を読んでいるというような生活のイメージが描かれたと思うのです。それぐらいのころから、各新聞社が宣伝したのか、だれがイメージを流布させていったのか私は存じあげませんが、まともなモダンな中流家庭では、一家の主は新聞を朝読むというイメージが確かに流布していったのだと思います。

 戦前、大正時代、昭和初期の中流階級は国民の2割といわれており、まだまだ難しい字の読めない人も多く、やはり、新聞もその程度の部数だったと思うのですが、戦後、2割ではなくて9割が中流を目指すという時代の中で、洗濯機もマイカーも必要だしマイホームもステレオも必要だが、新聞も必要である、というふうにおそらく国民が思ったのだと思います。

 各新聞社が、これからの日本人は新聞を読もう、というキャンペーンを張ったかどうかは存じあげませんが、おそらく宣伝してもしなくても、何となく時代の風潮は、これから日本人は豊かな国を目指す、これから私は中流の家庭を目指す、そういう中で電気製品も車も必要だが、新聞を読むことも必要だ、できれば平凡社百科事典も買っておきたい、できれば筑摩書房の世界文学大系も買っておきたいというようなことをみんな思いました。できればピアノを買って娘にはピアノを習わせたいということで、2DKの団地に住んで狭いながらもピアノを買ってみんなピアノを習ったというような時代が確かに55年以降あるわけです。新聞も、ピアノのように、これからの日本を支える中心となる中流家庭における必須アイテム、一つの中流を象徴する商品、アイテムとして位置づけられました。これが国民がこぞって新聞を購読していった理由ではないかと改めて思うわけです。

 そして新聞を読むと、広告が載っているしチラシも入ってきて、それによってまた消費が喚起されて物を買うわけです。ですから新聞自体が、この消費社会、資本主義社会の促進機能を持ったということもあるし、あるいは相撲が出ているとか、野球が出ているとか、昔はプロレスの記事もあり、大衆娯楽、大衆レジャー時代を促進するということもありました。総じていえば新聞もまた他の家電製品、あるいはマイホーム、マイカー、ピアノなどの商品と同じように、大衆社会の発展にあずかって力あったと思うわけです。ですから新聞も、非常に55年体制型のメディアであるというふうにとらえ直すことができるでしょう。
 そう規定すればするほど、2005年体制においては大変苦しい状況になるということになるわけですが、ここで、私が自動車会社や家電会社とか普通の企業とおつき合いする時に、どんな提案をするかを、新聞という商品についても直接当てはまるかどうかは分かりませんが、少しお話しいたします。 

<ウォンツからニーズ(自己最適化、ケア)へ>
 55年体制の中でも特に前半の高度経済成長期、終戦からオイルショックあたりまでの30年間を考えますと、言うまでもなく大量生産によって生活の基盤となる商品を供給していった時代です。生きるために必要な低次のニーズをまず満たしていくという時代であったと思います。それが70年代に入りますと、そういうものはもう満たされていって、だんだん生活の必需品ではないものが新しい消費のテーマになっていきます。特に80年代になりますと、高度消費社会論などというものが盛んに叫ばれるようになるわけですが、マーケティングの世界では、「ニーズからウォンツへ」ということがよく言われました。つまり、生活に必要なものは全部行き渡ってしまったので、必要なものをいくらつくっても生産過剰になってしまい売れません。そうではなく、必要ではなくて欲しいものをつくらなければいけません。必要ではないかもしれないけれども、欲しいものをつくろうという過剰な消費の時代、ある意味で無駄なものでもつくって売っていかなくてはいけないという時代になりました。
 新聞の場合ですと、この多品種少量生産に当たる時代がなかったのかなと思いますが、それでもカラーページを増やすとか、いろいろな紙面を増やすということがこれに対応したかもしれません。

 しかし、それもこれからはなかなか通用しなくなるのではないかというのが現在の私の認識で、さすがに自動車を一人3台の時代にできるかとか、ウォークマンは一人15台の時代にできるかとか考えますと、ちょっと現実味がないわけです。一人1台時代も、やはり、限界にきているし、そもそも人口も伸びない、世帯も伸びないとなると、あるいは環境問題、資源問題を考慮すると、なかなかそう浪費的な形での消費の拡大というものは許されないでしょう。そうすると、一体何によって消費を伸ばしたらいいでしょうか、ということがメーカーとおつき合いしていて大きなテーマになります。

 そこで、これがすぐ回答にはならないのですが、一つの考え方として提起できるのが、自己最適化という考えであったり、ケアという考え方であったり、あるいはコンシェルジュという考え方であります。
 コンシェルジュというのは、最近よく新聞でも使われる言葉ですので、ご存じかと思いますが、本来はホテルの何でも相談係です。日本では本当のコンシェルジュがあまりいないので、ホテルに行ってもコンシェルジュを利用することも少ないかと思いますが、フランスのちゃんとしたホテルにまいりますと、必ずコンシェルジュが1階にございます。日本人は荷物を預けるぐらいしかしませんが、私はもうフランス料理を3日3晩食べて飽きたので、ちょっと変わったエスニック料理でも食べたいんだが美味しいところはないかねえ、などと相談すると、どんなものがお好みですか、こんな店ならありますよと、お店は7時にならないとあかないから、それまで近くにこんな美術館がありますよ、ルーブルもオルセーももう行ったでしょうから、このレストランの近くにはピカソ美術館があるから、そこで2~3時間つぶしたらどうですかというような、その人が喜ぶような観光情報をいろいろ工面して案内してくれます。これがコンシェルジュです。こういうコンシェルジュ的な機能をこれからの企業は高めていかないと、なかなかこの消費停滞の時代を乗り切れないのではないかというようなことをいつも申しているわけです。
 例えばデパートも二十何か月連続マイナスという時代ですが、そういう中で日本の百貨店を代表する伊勢丹が新宿本店で何をしたかというと、1階の化粧品売り場に化粧品のコンシェルジュという機能をつくりました。ボーテ・コンシェルジュ(美のコンシェルジュ)です。何をするかというと、普通百貨店の化粧品売り場は、シャネル、ランコム、資生堂、カネボウ、とういうようにメーカー別になっていまして、それぞれのメーカーの人は、もちろんスキンケアも化粧水もクリームもマスカラも、何から何まで全部自分のメーカーで買ってほしいわけです。でも、買う側は、私は口紅はシャネルが好きだけど、マスカラはランコムが好きで、化粧水は花王が好きで、クリームはまた別の珍しいのが好きなのと思うわけで、一個一個回っていくのは大変ですが、本当はもっといい商品はないか試したいわけです。でも、試しに行くと、またいろいろ要らないものも勧められるので、それが嫌だというわけです。
 このへんは新聞の拡販と似ていて、「何かあげるから1か月取ってよ」と、よく年末になると言われるのですが、それが嫌で取らないという人もいるわけです。

 そういうことで百貨店の化粧品売り場は嫌だということで、だったらマツモトキヨシやドラッグストアで好きなもの選んだほうがいい、というふうに逃げてしまうお客さんが多いのです。これでは百貨店が大変だというので、伊勢丹はボーテ・コンシェルジュをつくって、私が女だとして、「三浦さんなら三浦さんにふさわしい化粧品は何か相談に乗りますよ」ということを始めたわけです。「あなたは、いまこういうクリームを使っているけれど、それよりこっちがいいですよ」「あなたは、こういうマスカラ使っているけれど、あなたの顔だったらこっちのほうがいいですよ」というのを全部相談に乗って勧めてくれます。そのカウンセリングに従って買うと、いままで5,000 円の商品を使っていたけれども、本当に私にぴったりなら1万円でも出そうと、3万円でも出そう、いやいや5万円だって出すぞというふうなお客さんがいまはたくさんいるわけです。そういう人のためにそういうサービスを始めました。

 それによって、資生堂は全部自分のところで囲い込めないかもしれませんが、お客さんは全部伊勢丹の化粧品売り場から逃げ出さないわけですから、マツキヨに逃げてしまう分は伊勢丹から逃げないので、その分、実はパイが増えて最終的には資生堂に来てくれるお客さんも増えるだろうということで、メーカーを納得させて始めたサービスかと思うのです。

 例えばこういうようなことがいろいろな企業で始まっています。単にいいものなのだから買ってください、洗剤もつけますからという売り方ではなくて、まさに自己最適化、本当にあなたにとってふさわしい化粧品はこれですよ、というところまで親身になって相談をして、それによってむしろより高い商品を売っていく。いろいろなところでこのようなことが始まっていると思います。そういうコンシェルジュ機能がこれからの消費を伸ばす上では重要だと思っているわけです。
 言いかえますと、これはケアというコンセプトです。ケアというと老人ホームと思われるかもしれませんが、そうではなくてお客さまのいろいろなニーズに応えていく、手当てする、手配する、面倒を見るということです。そういう意味合いでケア、ケア消費というのが重要ではないかと思っているのです。

 これだけ豊かな社会になり、一人何台もいろいろなものを持っていて、OLなどはルイ・ヴィトンのバッグを10個も持つぐらいみんな豊かです。日本は、それほど非常に豊かな社会です。でも、これからの社会、これからの行く末にみんな不安を持っています。いまある豊かさを何とか維持できないものか、これが壊れてしまうのではないか、というところに非常に不安を持っています。その非常に高度なところで実は切実なニーズが生まれていると思うのです。そこをどう突いていけるかが勝負の分かれ目で、そこの切実なニーズに応えれば、高いお金が取れるし、あくまで生活必需品ですよと言ったら100円しか取れません。低次のニーズは100 円ショップで満たされてしまうわけです。
 でも、ユニクロやマツキヨや100円ショップでは満たされないもの、あるいはディスカウント店では満たされないものを提供していかないと、大手の企業はやっていけません。それでは何ができるのですかということが問われていて、これだけ豊かな社会の中で将来に対して不安を持っている人びとの、豊かな社会だからこそ生まれている切実な非常にレベルの高い高次のニーズをどうケアしていってあげられるかが勝負の岐かれ目だ、というのが私の考えです。

 大変抽象的でありますし、では、新聞はどうしたらいいかというあたりは、もう少し考えないとなかなか分からないところなのですが、おそらく原則としては、そういうことが新聞にも当てはまるのではないかと思うのです。

<現代の若者は55年体制が終わってから育った>
 さて、次に現代の若者と55年体制について話します。内閣府の「国民生活に関する世論調査」で、いわゆる中流意識の質問を見ますと、「あなたの生活程度は世の中一般と比べてどうですか」という問いに対して、昭和33年、55年体制の最初のころは「中の下」と言う人が32%、「下」と言う人が17%、つまり、国民の半数、49%は「中の下」か「下」だと思っていて、「中の中」と言う人は37%、「中の上」と言う人は3%しかいませんでした。国民の半分は真ん中ではなくて自分は下だと思っていました。それがあっという間に1973年、たった18年で「中の中」だけで61%、「中の下」は22%、「下」は約5%になります。国民の半数が自分は下層であると思っていた社会が、あっという間に中流化して6割は「中の中」という社会に、劇的な変化をしたわけです。

 おそらくこの中流化の時代に新聞も圧倒的な伸びを示したはずであり、その中流が当たり前になってしまうと、実は新聞というものが持つ中流家庭の必須アイテムという意味合いがだんだん薄れていったはずです。それでもこの時代に中流化をした人とか、その時代の家庭に育った子供−実はそれは私で、私はまさに昭和33年生まれですが−は、もう45歳になっていまして、その世代までは何とか新聞は中流家庭の必須アイテムだと思うのです。ところが73年以降に育った世代、つまり、いまの30歳は、最初から「中の中」の社会しか知らないのですから、中流を目指すという気持ちはありませんので、中流家庭の必須アイテムとしての新聞という価値観はありません。非常に機械的に言えば、そう言えると思うのです。
 事実、いまの30歳以下の人は、新聞を生活の必要なメディアだと言う人はもう3割を切っています。NHK放送文化研究所の調査でそうなっています。つまり、それは中流であることと新聞を取ることが一致しないのです。

 インターネットもある、携帯電話もある、という状況の中で、情報に対してコスト意識が非常に強くなっています。新聞は、55年体制の人間、われわれ世代までにとっては水道料金と一緒で、ほとんど義務であって、固定費なのです。おそらくいまの若者にとっては変動費です。取っても取らなくもいいものをあえて取るなら、果たして4,000 円を払っていいものかどうかを意識します。それならADSLに払った方がいいじゃないかということになるわけです。

 岩波書店の本を読まないとか、筑摩書房の本を読まないとか、昔、文化的だと言われた出版社の本を読まないこととも軌を一にしていると思います。いまの20代をつかまえて、岩波の雑誌「世界」を知っているか聞いたら、2割いないと思います。1割いないかもしれません。この青山通りを通っている若者をつかまえて聞けば、間違いなく「『世界』?何ですか」という顔をされると思います。そのように、この55年体制の中で、進歩的であると思われた雑誌とか、文化的であると思われるそのシンボルであった出版社とか新聞とか、そういうものが意味をなくしています。

 この中流社会というものが30年間続いてきたということが、いかなる意味を持つのかというのは、これは新聞に限らず大テーマだと思います。そもそも新聞が自分を問う意味もあって、中流社会30年ということを真剣に考えた連載企画をするべきです。そうすると、新聞がなぜ読まれないかがよく分かるということもあるかと思います。

<若者の価値観>
 いままで申したあらかじめ中流だった世代と中流を目指した世代、私は45歳で、いまの若者は30歳以下ということで、15歳か20歳しか違わないと言っても、年齢以上の差があります。中流を目指して下層階級から中流階級に上った、それを知っている45歳と、気がついたらもう中流で、安定成長の社会でしたという人は全然違うということです。いまの45歳までは、日本は遅れた国で、近代化しなければ、貧しいから経済成長しなければいけない、アメリカのように強くなりたい、豊かになりたいと思ったのです。いまの30歳以下は、最初からアメリカより豊かな社会しか知りませんから、そんなことは思うわけありません。

 大げさに言うと、30歳以下は脱近代志向といいますか、そもそも近代化というものを知りません。近代化の中にある様々な価値、アメリカのようになる、豊かになる、あるいはもっと進歩する、未来を築いてゆく、あるいは清潔である、時間を守るみたいなことも含めて、様々な近代的な諸価値が通用しなくなっている世代であるということが言えます。新聞を読むということも、大正モダニズムという話を先ほどしましたが、おそらくモダンであること、あるいは近代的であることと一致していたはずです。そして戦後においては中流であることとも一致していました。言いかえると、豊かになることやピアノを買うことともイコールでありました。それが全然分からないわけです。
 逆にいまの若者は、レトロ志向であったりして、未来などは信じてなくて、むしろ昔のものを、自分が生まれる以前のものを懐かしんだりします。

 そう言えば、私は昨日家族旅行しまして、観光シーズンでなかなか電車の予約が取れなかったのでグリーン車に乗ったのですが、うちの子供はまだ5歳ですから、5歳で昔でいう一等車に乗るとはぜいたくだと思いましたが、周りを見ると、そんな人ばかりでした。昔は重役でないとグリーン車には乗れなかったのですが、いまは子連れや赤ちゃんを連れた人ばかりです。子供と一緒に普通の自由席に乗るのは面倒くさいというか大変ですから、お金を払ってグリーン車に乗ればいいとみんな考えているということがよく分かりました。

 このように、最初からグリーン車に平気で乗れるほどみんな豊かですから、非常に現状肯定志向が強いのです。いろいろな調査を見ても、こんなに不況だなんだかんだ言っても、現状の生活水準への満足度は非常に高いわけです。だからこそいまより落ちたくない、落としたくない、落ちると言われている将来が不安であるということがあります。しかしあまり上昇志向はありません。「新聞を読むと上昇できるよ」と言っても、買いません。おそらく新聞社の方は、新聞協会の方と話していても、やはり新聞を読んで幅広く知識をつけてくれないと困るじゃないかと、社会人たる者、新聞ぐらい読んでおかないと、とおっしゃるが、これは一種の上昇志向的な考えで、大人になる・上昇する・ひとかどの人間になる、そのためには新聞が必要だという言い方です。

 でもそういう上昇志向がいまの若者にはありません。だから上昇するために新聞が必要だと言われても、「じゃ要りません」ということになってしまいます。こういう難しいところがあります。
 逆に今の若者はリラックス志向だったり、いまある自分らしさというものを肯定したいという気持ちが強い。逆に言うと、あまり人からどう思われるか関係ありません。人からどう思われるか関係ないですから、公衆の面前で化粧や食べたりもするわけですが、人よりも優れていたいという気持ちも弱いのです。「朝日新聞」を朝から読むと人より優れているぞと思う人が減っています。「日経新聞」のいまの広告がそうですが、「日経」を読むと勝てる、上司に褒められるというような、訴求の仕方が実はあまり効かなくなっているという面があるかと思うのです。
 これはもちろん若者一般の話で、大手町で働くビジネスマンの20代は少し違うかもしれませんが、そもそも大手町で働くような人なら、「日経新聞」は尻を叩かなくても読むわけで、もうちょっとその下のあたりで、尻を叩けば昔は読んだ人が読まなくなっているというあたりが悩みどころだと思うのです。

 そういう平均的な人で言うと、これをすると人より優れる、勝てるみたいな気持ちがどうもあまり強くない気がします。それよりも自己最適化です。自分にふさわしいもの、自分に最適なものは何なの?ということを非常に求めます。あるいは人からただもらうだけの情報だと自分に最適なものが得られないのであれば、自分がつくる側に回ったほうが面白いじゃないかという逆転もあるし、あるいは完成されたものをただ金を出して買うよりも、いろいろ断片的にある情報を自分で編集する、−若者言葉でいうとミックスではなくてリミックスです−そういう志向を持つ若者もいるかと思います。
 ただ、このリミックスだ、編集だ、関与だというのは、若者の中でも、ややクリエーティブ志向の強い若者であって、普通の人はそこまではいきません。しかし普通の人であっても、自分にもっともふさわしい情報を求める、ということは言えるかと思うわけです。

<消費社会論、若者コミュニケーション論からのアプローチ>
 次に、消費社会論といいますか、若者コミュニケーション論的にご説明したいと思いますが、マーケティングの世界では、もうだいぶ前から、富士山型の消費から八ヶ岳型の消費へ、ということがよく言われます。富士山型というのは、みんなが一つの価値観で同じ目標を目指して登っていく価値観です。ところがいまは価値観が多様化して、八ヶ岳か六ヶ岳か九ヶ岳か知らないけれども、とにかくいろいろな山があって、人それぞれ目指す山が違うということです。

 もうちょっと卑近な例で言うと、例えば資生堂とかトヨタは55年体制の中で伸びた企業ですが、トヨタはどういう売り方をしたかというと、平社員の時はパブリカを買ってもらいました。いまはパブリカという車はありませんが、パブリカはパブリックカー、フォルクスワーゲンを英語で言ったもので、みんなの車、大衆車、国民車という意味ですね。で、平社員の時はパブリカです。そして課長になったらカローラを買おうと言いました。1960年代のCMでは、川崎敬三さんという俳優が、さえない課長さんだったんだけど、カローラに乗ったとたんにさえた課長さんになってカッコいい、というようなコマーシャルをやっていたのですが、カローラは課長になると乗る車で、部長になるとコロナに乗って、そしていつかはクラウン、取締役になったらクラウンに乗りましょうと、こういう売り方をしたわけです。

 中には、私はべつに車に関心ないからずっとカローラでいいという人もいたと思いますが、トヨタのディーラーはそんなことは許さなくて、「部長になったらコロナに乗らないと、ちょっと恥ずかしいですよ」と言って買わせたわけです。役員になると、「コロナでもいいなどとおっしゃらずに、やはりクラウンに乗らないと、ちょっと世間体がまずいんじゃないですか」と言って買ってもらったということです。実際はコロナが好きとか、クラウンが好きというよりも、「ああ、おれも部長だからそろそろ」とか、「おれも局長だからそろそろ」と言って買ったのだと思うのです。

 つまり、消費というものが、物を消費していたというよりも、社会的な意味を消費していて、出世、あるいは収入の上昇によって物を買い替えるというところがありました。資生堂の化粧品で言えば、MG5、ブラバス、ロードスというように、年を取ったらより高級なもの、高額なものに買い替えさせていくというのも同じ手法です。新聞の場合は、より高額な新聞というのはないのですが、一般のマーケティングはそういうふうにやっていました。
 ところが80年代になって、学生だけど最初から親のクラウンに乗っているみたいな時代になりますと、この富士山型の手法は成り立たなくなるわけです。

 視点を変えて、この富士山と八ヶ岳を上から見ると、同心円型とネットワーク型(多心型)に見えるはずです。昔の消費は同心円型で、一つの価値観でだんだん拡大していきます。これは新聞でも当てはまると思いますが、例えば「朝日新聞」を読む人は岩波書店の本も筑摩書房の本も読みがちであり、鶴見俊輔と加藤周一が好きというようなことです。要するに、同心円型に消費をして、同じ軸上で新聞も読めば本も読み、普通の消費でいえば、同じ価値観の軸上で拡大を続けていきます。ところがある程度豊かな社会で育った世代になると、そういう消費ではなくて、多様化した価値観に分化していきます。Aさんはもっとこういうものが好き、Bさんはまた違うテイストのものが好きである、という形になるわけです。このように同じ価値観で上に上っていくのではなくて、価値観が多様化して、タコツボが分化していく時代になるわけです。

 さらに言えば、この同心円型の時代は一家に1台時代とほぼ対応します。多心円型の時代は一人1台に対応すると思うのですが、先ほど申しあげたように一人何台という時代になりますと、まさにネットワーク型で、自分がひとりじゃなくて、複数に分裂する時代になる。これは若者を研究している社会学の研究者の研究報告を踏まえて言っていることですが、いまの若者は、自分が一つではなくて複数あるというふうに感じる者が多数派になりつつあります。自分は、ある時はAというテイストが好きだけれども、ある時は全く異なるBというテイストも好きだと、またある時はCという別の価値観のものが好きなこともあるということです。一人何台時代が長く続くことによって、同じ一人の人間なのに複数の価値観といいますか、趣味といいますか、テイストを共存させてしまいます。そういう時代になっているということが若者のコミュニケーションを研究する学者の中でもここ数年言われているわけです。

 これを消費に関して言いますと、昔のように、一人の人が自分の年齢の上昇、それに伴う所得の上昇、あるいは出世に伴って、カローラ、コロナ、マークU、クラウン、セルシオというふうに買い替えていってくれるというのは、非常に同心円的な一次元的な価値観における消費です。ところが自分一人の中にも複数の自分がいるという消費者が主流になってきてしまうと、そういう一次元的な系統的な消費ではなくて、異なるテイストのものをランダムに消費するという非常にややこしい時代になるということになるわけです。

 昔でしたら、トヨタならトヨタがまず25歳の時に最初に買う車、買ってもらえば、次の車も次の車もトヨタを買ってもらうという非常に安定した経営が可能であったのが、いまの若者は最初にトヨタを買ったといっても、それは個別の車種が気に入っただけで、その次はまた全然違う車を買うかもしれません。そうなってしまうと、なかなか経営計画は立てにくくなります。ではどうしたらいいかというので、例えばトヨタであったら一生懸命団塊ジュニアの研究もしているわけですが、それぐらいいまの若者の消費の仕方は非常に非系統的で多次元的でランダムになっています。同じ系統のものをまず最初に把んでおけば、後はだんだん自然に高級化、高額化、大型化していくというふうに甘く見積もることはできません。高校生がルイ・ヴィトンを買っている時代ですから、これ以上何を買おうかということになるわけで、次はもっと高額のルイ・ヴィトンなら分かりやすいですが、同時に100円ショップでも買うとか、次は全くルイ・ヴィトンとは違うテイストの商品に流れるかもしれません。

 言い方を変えますと、同心円型というのは、比較的ある狭い分野でどんどん向上していくともいえるし深掘りしていくともいえる消費ですが、いまの若い人の消費は、広く浅い多元的な、非常にブランドホッピングしやすい消費をしているということになるわけです。今日は「朝日新聞」を読んでいるが、次の日は「産経新聞」を読む、次の日は「夕刊フジ」を読むし、次の日は読まないということです。

 先日も、食事をしておりましたら、たまたま隣に30代の女性が座っておりまして話していました。聞いていると、「もう私は新聞はコンビニでしか買わないの」と言うわけです。定期購読せずにコンビニで買うということです。見出しによって、その日の事件によって買うのでしょう。経済的に大きな事件があれば「日経」を買ったり、政治的に大きな事件なら「朝日」を買うとか、松井や小久保のニュースの時は「読売新聞」を買うとか、まあ分かりませんが、どうもそういう買い方をしているようです。毎日その人の関心事の重点が違うのだから、当然こういう買い方になるということかなと思いました。新聞に限らずいろいろな商品がこのようにランダムで、浅く広い消費になっています。いろいろなジャンルのものをいろいろなテイストのものをつまみ食いする形になっているわけです。
 そういうことが起きてくると、ヒット商品など生まれないではないか。
でも、宇多田ヒカルは800 万枚売れたじゃないかとおっしゃる人がいるかもしれません。これは実は矛盾しないのです。いまの若者はいろいろなジャンルのものに手を出します。例えば音楽でいえば、歌謡曲しか聴かないという人はあまりいません。Jポップもジャズもクラシックも、もちろん海外の音楽もエスニックな音楽も、いろいろ聴きます。いろいろ聴かなくてはいけないのです。なぜならばA、B、C、D、E、F、いろいろなタイプの友達とつき合っていますから、Aという友達と話を合わせるにはJポップを聴くし、Dという人と話を合わせるにはジャズを聴くというような聴き方になっています。でも、お金に限りがあります。じゃあ、どうするか。というと、一番売れているものを聴くわけです。だから各ジャンルのベスト10は売れるけど、ベスト30はもう売れなくなる。

 本などもそうです。例えば村上龍の最近出た小説を読んで、面白かったとしましょう。われわれ世代の感覚だと、村上龍の代表作と言われている『コインロッカー・ベイビーズ』を読んでみよう、あるいはデビュー作の『限りなく透明に近いブルー』を読んでみよう。それも面白かったとなったら、全部読んでみようと言って文庫本でそろえました。こういう買い方をするのが、大体われわれの年齢までだと思うのです。ところがいまの若者はあまりそういう買い方をしません。村上龍面白かった、おしまい、なのです。次はまた違うものを読んでしまいます。あるいは次の日は本は読まずにCDを買う、あるいは次の日はCDを買わずにラーメン屋に行きます。ラーメンもCDも本も新聞も、全部全く均等に平等に、文化だから偉いとか新聞だから偉いとか思わずに、全く均等な一つのコモディティーとしてパラレルに併存していて、その時々の関心でいいと呼ばれるものを買います。いまこれが売れているよというもの、あるいはこの友達と話を合わせるために買うという形です。

 これは車もそうで、車の毎月の売り上げを見ていると面白く、いまは150万円ぐらいのコンパクトカーが毎月1万台とか売れるわけです。でも、セルシオが新発売するとやはり月に6,000台ぐらい売れます。ところがコロナとかブルーバードのような車は1,500台しか売れません。高い高級車と安いコンパクトカーは6,000台とか1万台売れるのに、一番コストパフォーマンスがよさそうなコロナとかブルーバードは2,000台以下しか売れないという変な時代になっています。ものすごく良い商品か日用品かに分化しているのです。

 よく言われる一人内二極化です。日用品はユニクロと100円ショップでいいが、他方でルイ・ヴィトンは買うということです。百貨店の平場で普通に売っているメーカーの商品は、一番コストパフォーマンスがいいはずですが、そういうものはあまり売れなくなってしまいます。百貨店は何年間も売り上げが下がり続けるということになるわけです。
 いいもの、高級なものでもメガヒットします。他方、非常に安いものも売れます。ちょうど真ん中のものが売れないという不思議なことが起こります。実はこの真ん中のものを売ってきたのが55年体制です。中流になるためのもの、中流が買いやすいもの、ある意味で課長さんのためのものをつくるのが日本のメーカーの得意とするところで、そういうものをたくさんつくってきました。ところが今、そのちょうどいいものが売れなくなって、非常に安くて日用的なものと非常に高級なものに分化するという時代になっています。もちろんこれは、セルシオが買える人とユニクロしか買えない人に階層が分化している面もあるでしょう。しかし、同時に同じものを買っている人がたくさんいるというのも確かで、マツキヨで買う人もいれば伊勢丹で5万円のクリームを買う人もいるのではなくて、同じ人が両方買うのです。

 そういう意味では新聞も、55年体制における中流化商品であったとすれば、実はものすごい情報金持ちといいますか、もっといいすごい情報はないのかという人にとっては食い足りないし、月300円でいいからもっと面白い新聞はないのか、使い捨てられる新聞はないのか、1か月に一度廃品回収に出さなくても場所を取らない新聞はないのかと、こういうふうに国民の意識が分化しているのではないかという仮説が成り立つと思います。
 中流であるために、中間的な情報を大量に国民全体に何百万も何千万も提供するという情報が果たしていま求められているのでしょうか。それを読んだところで、「あなたは中流ですね」と言ってもらえるわけでもなく、言ってもらったところで、「当たり前じゃないか、そんなこと」と言うものでしかないものを月4,000円出して買う時代であるかどうか。4万円出しても、もっとすごい情報はないのかというニーズと、400円でいいから使い捨てられる情報はないのかということに分化しているのではないでしょうか。

 その400円の人はテレビでニュースショーを見るでしょう。タダで面白おかしく政治から経済から家事育児の情報まで、いまのニュース番組は、民放の場合、バラエティー化していますから何でもかんでもごった煮でタダで提供してくれます。おそらく400円、つまり、100 円ショップ型情報、ユニクロ型情報でいい、どうせ使い捨てじゃないかという人は、民放テレビに流れています。他方、4万円でもいい、10万円でもいいからもっと本当のことが知りたいという人はインターネットでCNNのドットコムを検索するとか、「ニューヨークタイムズ」やCNN.comのホームページを見るでしょう。そのための情報消費支出は惜しまない。こんなふうに分化しているのではないかと思うのです。55年体制の中流化時代の平均的で均質で共通な情報というものへのニーズが分化していると言わざるを得ないのではないでしょうか。
 もしかすると新聞というものも、3,000万部のメディアと30万部のメディアに分化しなければいけないのかもしれません。いまは3,000万部を狙うとすると、それはテレビになってしまうし、30万部ではビジネスモデルとして新聞社がやっていけないという話だと思うのですが、実は問われているのはそういうところにあるのではないかという気がします。

<愛と快=価値観の変化>
 しかし、とりあえずこれからの対策として、新聞協会がよくおっしゃるように、何とか新聞を読む癖を子供の時からつけてほしい、ということがあります。しかし、それができるかどうかというあたりを少しチェックしてみたいと思います。
 NHK放送文化研究所が5年に一度やっている「日本人の意識」調査で、生活目標を聞いています。「愛」という志向は「身近な人となごやかに暮らしたい」という価値観、「利」は「しっかり計画を立てて将来を築く」という価値観、「快」は「その日その日を自分の好きなように暮らす」という価値観、「正」は「社会のために頑張ろう」という価値観で、それぞれの価値観の推移を見てみますと、中流社会がほぼ一度完成した73年ごろは、「利」つまり「計画的にしっかりやろう」が多かった。それに次いで「愛」でしたが、以後この「愛」がずっと伸びて、つまり、「なごやかに身近な人と過ごしたい」という価値観が伸びて、「計画的に将来を築く」という価値観はずっと減り、かつ若い人を中心に「快」、その日暮らし、フリーターでもプータローでもいいじゃないか、その日その日を楽しく暮らそう、という価値観が増えたわけです。

 こういう価値観からすると、おそらく新聞は、「しっかり将来を築きたい」という価値観の人が読みやすい。少なくともいまの新聞、いままでの新聞はそうだと思います。「なごやかに愛ある生活を家族と暮らしたい」みたいな人は、あまり新聞を読む必要はありません。「その日暮らし」の人もあまり新聞を読まないということで、国民の価値観からいうと、やはり、新聞というものから離れる理由はよく分かるということです。

 さらに若い人は、まさにこういうトレンドの時代に生まれ育ったわけですから、「身近な人となごやかに」とか、「その日その日を自分の好きなように」という価値観が国民全体の中に拡大する中で育ったのですから、頭の中というか体じゅうその価値観がしみ込んでいます。「身近な人となごやかに」とか、今日のことしか考えていないわけですから、ある意味では自分にしか関心がない、いまにしか関心がない人が増えてしまったと言えるでしょう。

 この調査の2003年のデータを細かく見ますと、20代前半の若者で違う傾向が出てきていて、やはり、不況の影響が出ているのですが、大きなトレンドとしては若い人を中心に、自分とか自分の身の周りの人だけで幸せならばいいという、まさにマイホーム主義あるいは私生活主義ですが、そういう価値観の人が増えてきたことは確かです。その結果として、別に利己主義とかそういうことではなく、そもそも自分の身の回り以外のことへの関心が非常に薄れてきてしまったのだと思います。他者とか社会に対して関心がないということです。

 考えてみると、いま携帯のメールで何をそんなに通信しているのかというと、ほとんどは友達とメールしているわけです。つまり、その携帯メールの中で行われているのは、自分専用の週刊誌をつくっているようなものだということで、私は携帯を「週刊自分自身」と名づけてみました。もう電車の中吊り広告の「週刊女性自身」も見ないわけで、極端に言えば、タレントのだれが何したということも関心がありません。自分の知り合いの太郎と花子が別れたとか、くっついたとか、そんなことばかりメールでやり取りしているということで、「週刊自分自身」であると思ったわけです。

<社会志向か個人志向か>
 そういう中で、社会に目を向けろと、自分以外の他者に目を向けろというのはなかなか大変だと思うのですが、多少明るい情報といいますか、少しは社会にも関心があるのではないかというような意識調査もあります。
 国や社会にもっと目を向けるべきだという意見と、まだまだ個人の生活の充実に専心すべきだという価値観がどう変化したかですが、最近不況のせいもあってか、個人志向がまた少し増えていますが、大きなトレンドとしては、国や社会にもっと目を向けるべきだという人は、過去20年ぐらいずっと増えています。ですから、自分のことしか関心がないようでありつつも、やはりそれではいけないとか、もう少し社会の役に立とうかというようなことも出てきてはいます。社会に貢献したいという意識も増えています。そのへんが新聞として最後に期待できるところかという気もします。

 消費をすると言っても、実際に単に物が気に入って買うということもありますが、部長になったからとか、社長になったからとか、社会的な意味を求めて人は消費している面があると思うのです。べつに洗剤を買うのに社会的な意味はありませんが、それでも生協で洗剤を買うのは単に自己満足ではなくて社会的な意味を求めた消費です。あるいは自分が出世したことを人に知らしめるためにこっそりといい車に買い替えるというのも、単に自己満足ではなくて社会や他者に対する意識があるわけです。ところがいま現在の消費の状況を考えると、あまりにも自己満足的な消費が拡大して飽和したために、消費をしても社会的な意味が感じられないという時代にいま来ていると私は思っています。消費をしても、「ああ、あなた、それ好きなんですね」で終わってしまいます。「あなた、偉いですね」とか、「あなた、出世したのですね」とか、自分を他者に対してアピールする意味が薄れてしまっているのではないかと思うのです。

 そういう中で人びとがどういうことに関心を持ち始めているかというと、一つは、社会性をもっと強めたいという志向です。それが先ほどの調査にも表れていて、消費はもちろんありつつも、個人的な満足感も充実させつつも、社会的な意味のあることがしたい。NPOとかボランティアもそうですが、あるいはトヨタのプリウスを買うとか環境にいい商品を買うとか、そういう社会に意味のある消費(=コミュニティ型消費)をしたいという志向が強まる。

 もう一つは、社会性は一切無視して個人性だけをもっと強める人、これもやはり、増えてきていると思うのです。それを買っても、「ああ、好きなんだ」としか言いようのない、「でも、好きだからいいじゃん」という志向性、いわばオタク型消費も強まっています。 もう一つは、どちらも弱い、自分自身という個人性も弱いし社会に対する意味もないというものです。要するに、勧められるがままに買いますというタイプの消費の仕方もある面では増えている気がします。これはリコメンド型と呼んでみました。

 中流型の消費は社会的消費と個人的消費のとりあえず真ん中あたりに位置します。新聞でいえば、自分が読みたいから新聞を読んでいるという個人的意味もあったでしょうが、中流社会の一員であるという社会的な意味もあったと思うのです。そこで今後、自分志向はあまり変わらずに社会志向のみを弱めたリコメンド型か、自分志向のみを強めていくオタク型か、あるいは社会志向を強めるコミュニティ型かに、もしこれから消費の方向が分化していく、あるいは分化するというよりは一人の人の中でこの三つの要素が併存すると考えたほうがいいと思いますが、そうなったとするとどうなるでしょうか。

<具体例>
 具体的に言いますと、環境共生型住宅とか、プリウスを買おうとか、生協で環境にいいものを買おうとか、コーポラティブハウス(自分で自由に設計できる家)とか、あるいはコミュニティビジネスが注目されたりとか、消費でありながらやや社会に意味のあるコミュニティ消費の方向に、確かに今後たくさん増えそうです。

 一方、オタク市場的な、いい年をしてガンダムのDVDやプラモデルをたくさん買うとか、タイムスリップグリコとか、そういうオタク的な市場も確かに増えています。

 もう一つは、インターネットを使ったリコメンデーションビジネス、アマゾンなどが典型的ですが、「あなたが欲しいものはこれでしょう」と言ってどんどん勧めて、リコメンドしていって、「ああ、そうだ。そのとおりだ」と言ってあまり主体性なく買っていくというビジネスも増えることは間違いありません。
 こういう整理の中でメディアはどうなるかというと、新聞以外のほかのメディア、例えば「TokyoWalker」のように手とり足とり、この雑誌に書いてあるとおり、ラーメン屋に行ったり、花見に行ったり、お月見に行ったり、ディズニーランドに行ったりすれば、楽しく過ごせますという、リコメンド雑誌が売れていますが、インターネットでもそういうリコメンド型サイトがどんどん増えてきています。

 また、コミュニティ型としては、ネットの中では、自分にとって非常に最適な人とだけ非常に濃いコミュニケーションをして、コミュニティを形成して、高度な情報もやり取りできます。NPOはインターネットがないと成り立たないと言われていますが、そういうネットコミュニティをインターネットが促進しているという状況もあります。

 もう一つオタク型、非常に自己満足の世界を極めていくという人もインターネットの登場で生まれやすくなっていると思うわけです。

 このように、メディアの変化、特に、インターネットがでてきたことで、三つのタイプすべてやりやすくなってきた。そういう中で新聞というメディアが、ある意味で取り残されているといいますか、リコメンドもできないし、新たなコミュニティも支えられないし、もちろんオタクのためにも役に立たないという状況がありはしないかというふうに思うわけです。

 私個人は、紙という形態がこれからも可能性があるとはとても思えません。ただ新聞社、新聞というメディア、情報を収集し、また発信していく機能というものがこれから不要になるとは思いません。日本中、世界中に張り巡らされ、優秀な人材を集めた大変な組織ですから、これがこのまま衰えるとは思えないわけです。ただ、メディアの状況、あるいは消費者の価値観は、非常に大きく急激に変わってきています。かつ2005年体制という中で市場自体が縮んでいくということを考えますと、相当早急に2005年、あるいは2010年以降の戦略というものを立てていかないと厳しいと思われます。どういう情報をリコメンドする新聞社であり得るか、どういうコミュニティを支援する新聞であり得るかというあたりは、まだまだ大きな可能性を秘めているのではないかというふうに思います。

 最後駆け足になってしまいまして、不十分なお話だったとは思いますが、今後への期待も込めましてのお話とさせていただきます。

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