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■現代社会の矛盾の象徴としての郊外ニュータウン
●トルーマンショー
トルーマンショーThe Truman Showという映画が3年ほど前に公開された。トルーマン(つまりtrue
man=真実の男)という青年が生きている世界が、実はすべてテレビドラマ「トルーマンショー」のセットであり、彼の暮らすシーヘブンSea
Heavenという名の街は、サイクロラマという巨大な半球型のカプセルの中にあり、そこに生きている人間はトルーマン以外はすべて俳優として演技をしている、という奇抜な設定である。
トルーマンは実は生まれたばかりで捨てられた子で、テレビ局が彼を引き取り、テレビ局の子どもとして育てた。その生まれたばかりのときから、トルーマンはドラマの中に入れられ、彼が初めてよちよち歩きを始めるときも、高校で初恋をするときも、すべてドラマとして演出され、世界中に二十数年にわたって放送されてきたのである。
しかも、ドラマにはCMが入らない。その代わり、出演者がドラマの中の会話に商品の宣伝を織り込んでいる。CMが入ることで、視聴者がトルーマンショーをただのテレビドラマと思ってしまうことを避けるためである。
メディアの発達がもたらす影響をテーマにした映画はこれまでもあったが、これほど大胆にメディアが作り出す仮想現実の世界を主題にしつつ、メディアとコマーシャリズムが一体となったアメリカ文化そのものを同時に批評した映画は珍しいのではないだろうか。
トルーマンが生きているのは、実はテレビドラマのセットの中だ。しかし、では一体現実に生きている(つもりの)われわれを取り囲む環境はどこまで「本物」であろうか。工場でつくられたプラスチック部材を組み合わせたプレハブの家は、本物の家なのだろうか。ビニールハウスで促成栽培された真冬のトマトは本当のトマトであろうか。コンビニで売られているペットボトル入りのお茶は本当のお茶だろうか。カップ麺は本当の食べ物だろうか。われわれの話す言葉はどこまで本当に自分の言葉であろうか。われわれはしばしばテレビで見た誰かの言葉をそのまましゃべっているだけではないか。自分が自分の目と耳で直に見聞きし、体験し、実感したうえで考えた言葉を話すことなどなく、すべてテレビや雑誌か何かで聞きかじった「噂」のような情報を口から発しているだけではないだろうか。われわれは本当に自分の頭を持った個人であろうか。マスメディアによって意識を支配されているだけではないか。同じCDが800万枚も売れるというのは、おかしくないか……。
そう自問してみれば、われわれは多かれ少なかれ嘘の世界に生きていると言える。完全に嘘ではないが、完全に本物でもないような、虚実の入り混じった不思議な世界だ。それは高度に発達した大衆消費社会の必然的帰結だとも言える。すべての大衆に「豊かな生活」をさせるには、本物の家と本物のトマトでは足りない。だから本物のような家と本物のようなトマトを与えなければならない。それが大衆消費社会だ。
郊外は、こうした大衆消費社会のシンボルだ。結晶だ。郊外は、嘘のような本物のような街だ。郊外に住むということは、嘘のような本物のような人生を生きるということだ。そこには、嘘のような本物のような父親と、嘘のような本物のような母親と、嘘のような本物のような子どもが、嘘のような本物のような価値観を信じて住んでいるのだ。
トルーマンが暮らしている街は、映画の中ではドラマのセットにすぎなかったのだが、実はその街は実在する。ややこしい話だ。実在の街で、映画が撮られ、映画の中ではその実在の街がテレビドラマのセットなのだ。現実と虚構が幾層にも入れ子構造になっている。それがトルーマンショーの面
白さであり、怖さだ。
その街はフロリダの「シーサイド」という街である。旧来の郊外住宅地を批判する住宅地開発手法であるニューアーバニズムの典型と言われる街である。映画の中でも、写
真で見ても、まさに楽園のような美しい街で、本当にこんな街があるとは俄には信じがたい。もしかすると、ディズニーランドの中に紛れ込んだのかと思わせるような街である(だから私には、これがどうして旧来の郊外への批判なのかわからないが、ニューアーバニズムについての議論はここではしない)。
こういう人工的な住宅地に住み、退屈したらテレビを見、それにも飽きたらショッピングモールに行って一日過ごし、たまにはテーマパークに出かける。そういう暮らしがアメリカの平均的な生活なのであろうし、日本人の生活もそういうものになってきた。すべてが作り物のような本物のような生活。そこでは、現実に暮らすことと、テレビゲームのような仮想の世界の中に意識がのめり込んでしまうこととは、実際どれだけも違わないものになったのかも知れない。
ただ違うのは、トルーマンショーは映画だが、われわれの生きる世界は映画ではないという限りにおいて現実だということだ。
●郊外は少年犯罪の温床
1997年6月、神戸市郊外のニュータウンで14歳の中学生による小学生惨殺事件が起きた。通
常、この種の犯罪の原因は家族や学校の問題に帰せられることが多いが、この事件の場合は、ワイドショーのような番組ですら、郊外ニュータウンというものをこうした事件の起こる土壌としてとらえていたのが印象的であった。多くの人々が、郊外ニュータウンの病理を感じ始めたのだと言える。その後、堰を切ったように中学生・高校生の事件が頻発したが、それらの事件の起きた土地に注目してみると、非常に多くの事件が日本中の郊外で発生している。(三浦、2001)
もちろん少年犯罪は現代社会全体の問題だ。しかし、だからこそそれは郊外の問題なのだ。なぜなら郊外は最も現代的な空間だからだ。現代しかない空間だからだ。現代しかない空間には最も現代的な現象が起こるであろう。最も現代的な事件・犯罪が発生するであろう。
郊外といっても、東京や大阪などの大都市の周辺だけの話にすぎないという人もいるかも知れないが、それは間違いだ。郊外化はいまや日本全国の傾向である。大体日本中のどの地方でも、道路の整備によってモータリゼーションが進み、新興住宅地ができ、ロードサイドのショッピングセンターで買い物をするようになり、そのため旧市街地は昼でも人気がないほど廃れている。東京圏ほど巨大な規模ではないが、日本の中小都市の周辺には大体郊外が形成されている。
しかも、そうした地方の方が、自動車所有率が高く、また東京よりもずっと自動車なしでは生活ができないようなライフスタイルになっており、休日ともなれば高速道路を使って他県にまで買い物やレジャーに出かけることすら日常茶飯になっている。ある意味では、東京以上に郊外型の、あるいはアメリカ的なライフスタイルになっているのである。だから、郊外的な事件といっても、もはや東京や大阪のような大都市の郊外だけで事件が起きるとは限らないのである。
ではなぜ、その郊外で多くの少年犯罪が起こるのか。そこで以下では、郊外というものが本質的に持っている問題を考えてみよう。
●故郷喪失と共同性欠如
郊外を考えるうえで重要なのは、郊外生活者の多くが、自分の生まれ育った地域から遠く離れて暮らす「故郷喪失者」であるという点である。これが郊外生活者のイメージを根底から規定する大きな要素である。
「故郷喪失」は都市への人口流入がもたらす現象である。が、その都市への人口流入という問題を解決するために進められた郊外化は、都市化以上に故郷喪失者を大量
に生んだ。なぜなら、もともと都市に住んでいた人間も郊外に移住したからである(これは地方の中小都市の公害でも同じである。古くからの中心市街地の商店街の人間も、過疎地の農村出身の人間も、今は郊外に住んでいるケースが多い)。
この「故郷喪失」と深く関係した問題として、まず郊外の第一の問題として考えられるのが「共同性の欠如」という問題である。郊外には、生まれた土地も、育った場所も異なる様々な人間が、短期間に急激に大量
に移り住んでくるので、どうしても地域の共同性が形成されにくいということである。
しかも、郊外の父親たちはほとんどが雇用者であり、それぞれ別々に都心のオフィスや工場で働いている。同じ街区に住んでいても、同じ一つの仕事を一緒にしているわけではない。だから、隣に住む人がどこで何をしている人かも知らないのが普通
である。
共同性の欠如というと、一見非常に都市的な問題であるように思われがちであるが、都市といっても下町の商店街であれば人間関係は濃密である。それぞれが異なる業種の商売をしていても、相互に取引関係がある。地域なりの歴史も伝統もある。「世間」があり「付き合い」がある。しかし、郊外においては共同性が生まれる必要がそもそも存在しないのである。
●職業の不在
郊外の第二の問題は、郊外では人が働く姿が見えないということである。郊外はしばしばベッドタウンと呼ばれる。ただ寝るだけの場ということである。都心で働く父親にとってはたしかにそうである。
郊外はまた消費の場であるとも言われる。生産や労働はもっぱら男たちが都心で担当している。郊外はそこで得た給料を消費して、物を買っているだけだということである。
いずれもやや極端な言い方ではあるが、しかし郊外には家事労働以外の労働があまり見られないことは確かであろう。郊外では職業が見えないのである。
もちろん郊外にも、仕事の場がないことはない。スーパーに行けばレジ係も仕入れ係もいるであろう。が、そんな程度である。世の中にある職業のうち、ほんのわずかしか郊外にはない。だから、たくさんの職業、仕事が相互に関係しあいながら世の中が動いていることを実感することは、郊外では難しい。
たとえば昔の農村や下町の生活では、親が働く姿が自然に子どもの目に入ったし、子どもも親の仕事を一緒に手伝うのが日常であった。農家ならもちろん農作業を手伝い、商店なら店番を手伝った。
ところが現在はホワイトカラーの家庭が増えているから、そういう経験は激減している。商店ですら最近は子どもが手伝う光景は見ない。親の意識の変化もあるが、そもそも昔の商店は職住が一致していたのに今は商店でも職住が分離しているから、手伝わせようがないのであろう。
●均質性
郊外の第三の問題は「均質性」である。
郊外ニュータウンの住民はほとんどが核家族であり、両親の年齢は、同じ街区であれば大体30〜40代であり、子どもたちの年齢は0歳〜10代であり、夫は都心に勤めており、妻は専業主婦であろう。
住宅の形は、細かなデザインは違っても、大体どれも同じような形であり、それが地平線の彼方まで建ち並んでいるであろう。住区の中にあるスーパーも、街路も植栽も、同じ時代にできた郊外ニュータウンであれば、全国一律で、まるで差がない。
こうした均質で無個性な生活空間の中で、郊外の住民は、生活時間の面でも同じように暮らしている。朝、父親は通
勤電車に乗って会社に向かう。子どもは毎朝学校に行き、夕方からは塾に行き、土日にはピアノや水泳のスクールに通
う。母親は夫や子どもを送り出すと、ちょっとテレビを見て、家事をして、パートに出て、夕方家に帰り、また家事をする。大体どの家庭でも、同じようなものだ。
●閉鎖性と同調性
郊外の第四の問題は、街や住宅が外部に対して閉じている点だ。
郊外住宅地は、都心の劣悪な生活環境に対して、きれいな空気と豊かな緑と安全性を売り物にしていたから、住宅地の中に住民以外の異質な人々が入り込むことを本質的に好まない。郊外は均質で安全で清潔でなくてはならない。
また戦後の住宅は、寝食分離思想とプライバシー重視思想とマイホーム主義とが結びつき、個室化の方向に向かい、それが高学歴志向と相まって、家族の成員がそれぞれの部屋をもち、その中に閉じこもる傾向が助長された。
昔の家には、縁側のように、家族以外の人間が平気で入り込むことのできる空間であった。そうした空間は、家と「外部」をつなぐ役割を果
たしていたが、現代の住宅は、自分の家の中にそうした「外部」を取り込む装置がない。
郊外化のために、夫が同僚や部下を家に連れてくることもなくなった。近所の人が家に出入りすることも少なくなった。子どもですら電話でアポを取ってから遊ぶようになった。
このように、郊外の人間はマイタウンとマイホームとマイルームによって三重に外部から閉ざされていると言える。そしてそうであるがゆえに、郊外では、そこに住む人間であっても、つねに誰かから監視されているような感覚を生み出す。フーコーの指摘したパノプティコンのように、郊外という空間自体が相互監視装置になっているのだ。
従って郊外では、つねに他者の視線を意識した同調的な行動が拡大せざるを得ない。郊外の住民は目立ちすぎることを嫌う。服装もマイカーも住宅も、あまり目立ちすぎないように、人と大体同じような外観を選ぶ。
●「私有」という問題
外部に対する閉鎖性と関連する問題が「私有」という問題だ。
郊外住宅地を歩くと、私はどうも落ち着かない。どうして落ち着かないのか。ずっと不思議だったが、ようやくわかった。郊外住宅地は、私有財産の街だ。だから、私のような部外者はその私有財産を脅かす存在として位
置づけられる。だから郊外にはよそ者が入り込む余地がないのである。
繁華街や商店街があれば、そこにはよそ者でも入り込める。別の街から客が来るのが当たり前だ。
その意味で郊外は街というより、大きな私物だ。その私物の中にまたマイホームという小さな私物がある。その小さな私物である家の中にさらに小さな個室という私物がある。その個室の中にはまた私物が溢れ返っている。ロシアの入れ子人形のように、私物の中に私物があり、またその中に私物がある。小さな小さな私物の世界の連鎖、それが、その街を訪れた者を排除しようとする。(三浦、1999)
●郊外で育った子どもと公共性の問題
このように、地域としての共同性や歴史がなく、仕事をしている人間の姿が見えず、均質で、外部に対して閉ざされた私有空間である郊外という空間は、子どもの成長にとってどのような影響をもたらしうるであろうか。
われわれ日本人のモラルは、キリスト教などとは違い、宗教的な規範によって規定されるのではなく、現実の身の回りの「世間」との関係の中で形成されると言われる。個人と神が向き合うのではなく、要するに、日常的な隣近所との付き合いの中で、して良いことと悪いことを経験的に学んでいく。
しかし郊外は平等で平板な社会だ。職業や身分による差別はない。そもそも隣の人がどんな職業か知らない。郊外では、みんなが一様に同じような中流なのであり、上下関係はない。
神社もないしお寺もない。聖と俗がない。空間が平板で、ここではこんなことをしてはいけないといったモラルはない。時間にも聖と俗がない。朝っぱらから何をするなといったモラルがない。すべての空間も時間も俗であり、だから、いつ、どこで、何をしてもいいという意識が助長される。
要するに「世間」がない。公共性がないのだ。「世間」のない空間で育てば、「世間」の目を意識しない人間になっていく。旧世代が自然に身につけた常識や道徳を、彼らは自然に身につけない。そうなれば、旧来の価値観の根本的な崩壊が起こるのは当然だ(注1)。「なぜ人を殺してはいけないのか」すらもはや常識ではなくなったのだ。
倫理学者の大庭健は、現代人の中に「所有領域の中ではミニ専制、無所有領域では放縦」という傾向があると言っている。つまり、個室の中で「ここは私の部屋だから何をしてもいい」という意識が強まり、また誰か他の「私」の所有物には触れないようにするが、誰も私有しない「公」にはまったく無関心で、そこでは何をしてもいいと考える。そういう社会は「没公共的な私有社会」であり、家庭内でも、家族の成員がそれぞれの「私的城塞」としての個室の中でミニ専制君主化し、居間や食卓のような公共空間が縮小すると大庭はいう(大庭・鷲田、2000)。
これは具体的には、近年増加している電車内や歩きながらの化粧や飲食などを思い起こせば良い。そういう行動を平気で行う人間は、自分の私的な空間で行うべきことを公共的な空間にも持ち出していると言える。彼らにはおそらくそもそも電車の中や街の中が公共的な空間であるという意識すらないのであろう。すべての空間は、自分の部屋と同じような私的な空間として意識されているのであり、だからこそそこで何をしても平気なのである。
なぜそういう意識を持った人間が増えたか。それはマイホーム、マイルーム、マイカーという価値観が主流となったためであろう。「マイ」中心の価値観は、必然的にいわゆる「自己チュー」(自己中心主義)を助長するからだ。もちろん青少年に限らず、大人であっても、私有意識の拡大した現代では、人はだれでも自己中心主義に陥りやすいと言わねばならない。
かつての家は、外部に対して開かれていた。換言すれば家の中に公共性を内包していた。縁側も仏壇も神棚も客間もそうだった。そもそも家と言っても私物ではなく、先祖代々受け継いできたものであったし、借家住まいも多かった。つまり、自分の家といっても私物ではなかったし、家の中にも公共性があったのだ。
しかし戦後の日本人は、私有のよろこびを追求するあまり、私物化した家の中に、そしてあらゆる私的な領域の中に、公共性の要素を埋め込むことを忘れていた。そして私的領域だけが拡大した郊外では、ますます公共性への契機が欠けていたと言わねばならない。あまり目立たないようにするという意味では、他者の視線をつねに意識しつつ、しかしその他者の視線は公共性とはまったく別
物であり、むしろ私的領域への侵犯を拒む排他性に過ぎなかったと言えるであろう。
●求められる公共性の構築
もちろん、ある意味で子どもたちも被害者だ。よそ者を排除する郊外は、住民自身の中からもよそ者性を排除する。
では、郊外にとって何がよそ者的か? それは典型的な人生のコースを外れることであろう。たとえば、入試に失敗した者、フリーター、失業者などは郊外的ではない。郊外は、明るい理想の家族が住む場として設計されているからだ。ホワイトカラーの夫と専業主婦と勉強熱心な子どもが住む街として設計されているのだ。失業した夫とフルタイムで働く妻と勉強嫌いの子どもの街としては設計されていないのだ。それは郊外のイメージに適さないのである。
こうしてみると郊外は、その機能としては工場と等しい。郊外とは、工業製品化され、大量
生産された街である。だから日本中どこでも同じ様な均質な空間になる。しかしそれだけではない。郊外はそれ自体が工場なのだ。外部と遮断され、管理された、均質な空間の中で、均質な人間を再生産する工場なのである。それはまるでトルーマンショーのカプセルのようではないか?
そういうカプセル化された工場のような郊外に住んでいると、なんだか自分がちっぽけな大量
生産品の一つに−−まさしく「透明な存在」に−−なったように感じられるかも知れない。そうだとすれば、これからの郊外は、外部に対して開かれ、異質で自由な個人が生き生きと活動しつつ、それらの諸個人が協働しながら一つの公共圏を立ち上がらせるような、そんな場にならなければなるまい。
<注1> 野村総合研究所の「生活者1万人アンケート」(2000)によると、「電車・バスなどで高齢者に席を譲らないこと」を「社会通
念上、大目にみられる」と考えるのは、10代男性で20.2%、同様に「空き缶
、吸い殻のポイ捨て」も20.2%に達する。
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