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■ファミリーレストラン
食欲のスペクタクル −−ニューファミリー時代の幻想
三浦 展
ファミリーレストランという概念はアメリカにはない。しかし、日本のファミリーレストラン業界がモデルにしたのはハワード・ジョンソンによるフランチャイズレストランであると言われる。
ハワード・ジョンソンの店は1935年、ピルグリム・ファーザーズが到着した岬の街、マサチューセッツ州ケープコッドで開業。40年には130のフランチャイズ店を持った。その外観はジョージアン風とコロニアル風の混淆であり、壁は当初アスファルト製の白い下見板だったが、アスファルトでは色がくすんで見えたので、その後はホーローになった。窓の扉は緑色、屋根はオレンジ色に塗られ、屋根の上には風見鶏がまるで十字架のように立っており、一見すると教会か町役場に見えた。
このようにハワード・ジョンソンの店はアメリカ人好みのノスタルジックなイメージを売って成功したが、同時に実に「目立ちたがり」(conspicuous)な店であった。外観も目立つが、道行く自動車が必ず店があることに気づくように、大きな交差点の角やカーブのある道に沿って店を立地させた。(1)味はまあまあだったが、他の店に比べて特においしいわけではなく、ごく普通
だった。ハワード・ジョンソンは、味ではなくフランチャイズレストランという経営スタイルで自分の名前を売ることに専心していたからである。(2)
日本のファミリーレストランの歴史は、1970年にオープンしたすかいらーく国立店に始まる。当時すかいらーくは「ファミリーでも安心してご利用いただけるレストラン」をうたい文句にしており、そこから、マスコミがファミリーレストランという言葉を造語したらしい。(3)
すかいらーくの1号店が東京の郊外に開店しかことからも明らかなように、ファミリーレストランはまさに郊外を主戦場にしていた。デニーズ1号店も横浜市の郊外である港南区で74年に開業した。その後、すかいらーくが70年代に出店した149店のうち144店は三多摩、神奈川、埼玉
、千葉にある。同様に、デニーズのそれは78店中72店である。つまりほとんどすべてが東京の郊外だったのだ。(4)
70年代の郊外は、団塊世代の夫婦がマイホームを求めて急激に人口が増えていた。彼らはニューファミリーと呼ばれて新しいライフスタイルを形成し、日曜日に家族揃って車に乗ってファミリーレストランに行って食事をすることが、新しくて、少しおしゃれなことだと思われた。すかいらーくの赤とオレンジのひばりの看板がものすごい勢いで増えていった。
食べる物と言えば、せいぜい目玉焼きが肉の上に乗ったハンバーグステーキくらいなものであったが、それでも当時は、赤いニンジンと黄色い卵の黄身と緑のサヤエンドウというカラフルな取り合わせの食事が、明るい中流家庭の象徴であった。
80年代に入ると、すかいらーくは大人が楽しむレストランとしてイエスタデイという新業態を開発し、カジュアルレストランと名付けた。東京では世田谷・用賀の環状八号線と東名高速道路のインターチェンジ付近にイエスタデイや類似の店ができ、その界隈がアメリカ村と呼ばれて話題になったこともある。当時は若者のデートコースの一つであった。それはちょうど東京ディズニーランドができたころでもある。まだ、アメリカ的であることがイコール「おしゃれ」であると思われていたのである。
しかし90年代に入って、ファミリーレストランの経営は苦しいようである。家族での食事が減り、単身者の利用が増えている。小さな子供のいる家族そのものが晩婚化によって減っている。家庭の食事も、個人の好みが多様化し、生活時間もバラバラになっているので、家族それぞれが異なる時間に異なる物を食べるようになっている。コンビニで買ったおにぎりや弁当が家庭の食卓にも上っているようである(「コンビニ」の項参照)。そうした現在から見れば、家族が揃ってファミリーレストランでハンバーグやステーキを喜んで食べていたニューファミリーの光景すら、すでに美しいノスタルジーの世界のできごとのようである。
料理や店の雰囲気も、アメリカ的であるというだけではまったく魅力はない。和食、寿司、うどん、ステーキ、イタリア料理など、ファミリーレストランは多様化を続け、専門店化している。ロードサイドにはこうした様々な飲食店が並び、あたかも食欲の展示場になっている。同時にそこにはラブホテルや性風俗店や仏壇の店も並んでいる。食欲と性欲と死という人間の逃れがたい欲望と宿命が、そこでは「目立ちたがり」の大きな看板と共に何の羞恥心もなく陳列されている。それを見ていると、欲望の制御装置が少し狂いそうになる。
●注
(1)Langdon, Phlip Orange Roofs, Golden Arches Knopf, 1986
(2)Mariani, John America Eats Out Morrow, 1991
(3)茂木信太郎『現代の外食産業』日経文庫、1997
(4)三浦 展『「家族と郊外」の社会学』PHP研究所、1995
●参考文献
三浦 展『新人類、親になる!』小学館、1997
●写真
ハワード・ジョンソンの写真あります。
もちろん日本の郊外も多数。
●郊外家族のための食
日本では比較的都市的な若者向けのビジネスとして始まったマクドナルドも、本来アメリカでは郊外のファミリー向けのビジネスとして始まったものであり、日本で言うファミリーレストランと近い。他のファーストフードチェーンのほとんどはまだ都心に立地しており、労働者階級が住む猥雑な地域に立地することも多かったが、マクドナルドのフランチャイズ化を始めたレイ・クロックはベビーブームを生んだ郊外のファミリーに目標を定めた。クロックの考えでは、都心に通
勤する郊外生活者は夕食の時間には都心にはいない。だからその時間に都心に残っているのは「家庭人」ではない。それはのんだくれか、もっと悪い人種である。そういう人間は「ファミリーレストラン」としてのマクドナルドのイメージを損なう(44)。「ホワイトタワーがハンバーガーを鉄道と労働者に結び付けるとすれば、マクドナルドはハンバーガーを自動車と子供達と家族に結び付けるのだ」とクロックは考えたのである(45)。
また、ベビーブームの家族に客層を絞ることは、当時のドライブインの大事な客であった10代の若者に背を向けることを意味したが、クロックはマクドナルドが若者の溜り場になることに対して徹底して抵抗し、店内からジュークボックスやたばこの自動販売機を撤去し、電話さえもなくした。女性も雇わなかった。店にミニスカートをはいた若い女性店員がいると黒い皮ジャンを着た悪がきどもが集まるし、女性店員は仕事もせずにおしゃべりばかりしているので、ファミリーレストランのイメージをこわすと考えたからである(46)。「みなさんの奥さんも私の妻も、皮ジャンを着た若い奴等がいて、たばこの煙が立ち込めているようなところには行こうとはしないだろう」とクロックは言った。普通
のドライブインは床にナプキンが散らかっていたのに、マクドナルドが店を清潔に保ったのも若者を寄せ付けないためだった(47)。こうしてマクドナルドは、郊外のファミリーの店になっていったのである。
● 注
(44)Halberstam,David“The Fifties ”Villard Books,1993
(45)Levenstein, Harvey“Paradox of Plenty--A Social History of Eating
in Modern America
”Oxford University Press,1993
(46)Levenstein, ibid
(47)Halberstam, op.cit
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