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イームズと博覧会の政治学1957−1959
PR映画の時代
デザイナーのイームズは家具デザインなどをする一方で、1950年代以降100点以上にのぼる映画を制作している。イームズオフィスとしての作品も多いが、ほかにIBM、ハーマン・ミラー、CBSなどのスポンサー企業のために制作したPR用あるいは展示用の映画も非常に多い。
戦後のアメリカはスポンサーとなって制作するPR映画の大ブームが起きていた。大企業だけでなく中小企業も、そしてミュージアム、慈善団体、連邦政府も、製品の魅力や政策の意義などを伝えるためにPR映画を作った。1959年には、劇場公開用の映画は223本制作されただけだが、スポンサー付きPR映画は5400本も作られたという。
イームズも1950年代には、家具、建築以上に情報社会のデザインへの関心を強めており、53年にはA Communications Primerという教育映画を作っていた。新しい情報社会の可能性を美しく描き出すイームズの映画はIBMにぴったりだった。IBMのデザイン担当役員であるエリオット・ノイスは、1940年代からイームズと親好があり、彼らの仕事ぶりをかねがね高く評価していた。そこでIBMは自社の展示会の会場デザイン、映像、カタログなど50以上もの作品をイームズに発注した。有名なPowers of TenもIBMがスポンサーした作品である。
そして1958年のブリュッセル万博でイームズはIBM館のために映画The Information Machineを制作。1964−65年のニューヨーク万博でもIBM館のために映画Thinkを制作するとともに、IBMのパビリオンも設計した。
IBM以外にもハーマン・ミラー、ウェスティングハウス、ABC、ボーイング、ポラロイドといった企業がイームズにPR映画製作を依頼するようになった。アメリカの資本主義の発展とともにイームズはその活動領域を広げていった。中でも注目すべきものが、1959年にモスクワで開催されたアメリカ博覧会 American National Exhibitionにおける映像展示である。
ではなぜイームズがそこで必要とされたのか。そしてイームズは何を映像で伝えようとしたのか。
平和のための万博
1957年10月4日、ある事件がアメリカ人を恐怖に陥れた。ソ連が人類史上初めて人工衛星の打ち上げに成功したのだ。その名はスプートニク。よって、このときのアメリカのショックを「スプートニク・ショック」と呼ぶ。
同年8月にはすでにソ連はICBM(大陸弾道弾ミサイル)の実験に成功していた。そして11月3日はスプートニク2号の打ち上げも成功した。その衛星の中にはライカ犬が乗っていた。スプートニクの成功は大陸弾道弾の脅威が現実になったことを意味した。核弾頭を積んだミサイルがソ連から飛んでくる!
早速アメリカもロケット開発に力を入れた。だが、それだけではない。アメリカはソ連を懐柔し、西欧諸国を仲間に引き入れる必要があった。
1958年、第2次世界大戦後初の万博、ブリュッセルで万博が開催されることが決まっていた。メインテーマは「より人間的な世界のための世界のバランスシート」。このテーマを描き出すために、ブリュッセル万博は科学を中心に据え、原子力の平和利用に重点を置いた。
参加国は、その国の最新の技術の成果をディスプレイすることが求められたが、それは国同士の競争ではなく、世界中の人々の、平和、豊かな暮らし、そして幸福への願いを表すものであることが要求された。
共産主義より平等な国アメリカ
1956年、アメリカはブリュッセル万博のための準備室BREを設置した。アメリカのパビリオンを建設するに当たってはまずそのための知的な土台が必要だった。
当初、BREはそれを「生命、自由、幸福の追求」というコンセプトで表現した。が、モダンでソフィスティケートされたアメリカ人にとって、それはあまり凡庸に思われた。そこでBREは各界の有識者たちに意見を求めることにした。
IBM社長のトマス・ワトソンはアメリカのパビリオンは生産性を強調すべきだ、そしてアメリカがすでに世界最高の生活水準を達成したこと、そしてわれわれがそれをどうやって達成したかを示すべきだと述べた。
「クリスチャンサイエンスモニター」誌の編集者は、知識人の展示ではなく、労働者や家族といった生きた展示をすべきだ、農民でも主婦でも機械を使えるということがアメリカの生活水準の平等さを示すだけでなく、コミュニティの平等さを示すことになるはずだと述べた。アメリカでは労働者が資本家だということを示すべきとか、アメリカの労働者の個人としての自由を強調すべきだという意見もあった。
著名な社会学者のデイヴィッド・リースマンは、最新の組み立てラインを中心に据えるべきだと言い、歴史家のシュレジンジャーは、共産主義だけが技術の革命を人間生活に応用する唯一の途だといった議論を打ち負かすような展示であるべきだと述べた。
こうした意見を参考にしてBREはアメリカの展示についての3つの重要なコンセプトをまとめた。
第一に、アメリカの社会では生活に必要なすべての物が世界のどこよりも平等に分配されていることを示すこと。
第二に、社会問題、とくに人種問題の分野では未完の事業が残っていることを示すこと。
第三に、プロパガンダのような重苦しい疲れる展示ではなく、断片的なメッセージが間接的に暗示されるような、精神的で視覚的なオアシスを与えるべくデザインされるべきこと。
沸騰する社会
だが、BREは、まだこれでは展示についてのテーマの一貫性が欠けていると感じていた。万博の開催の日はどんどん近づいている。不安になったBREはある研究所に助言を求めた。それは1933−34年のシカゴ万博の「科学の殿堂」の建設への協力者たちがつくった研究所であり、科学、技術、ビジネス、アメリカ文化についての学際的な研究に基づく知見の宝庫として設立されたものである。それこそがMITである。
1957年3月、BREはMITに「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」を創造するための科学と技術の役割を描き出すために小さな部会をいくつか組織してほしいと要請した。
人文学部長のジョン・バーチャードはその要請を受けて、MITの科学、人文、社会科学、土木の専門家にBREを含めたメンバーで三日間のシンポジウムを開催し、「土地と人々」「生活と仕事」「行動におけるアメリカの理想主義」「科学と技術」「文化」というテーマで分科会を組織した。
さらにバーチャードはアメリカの展示のための知的土台となる草稿を書く役割を担うワーキンググループを組織した。そのメンバーは、近代化論で有名なロストウ、「タイム」や「ライフ」の編集者、CBSのプロデューサー、その他、政治学者、社会学者らから構成されていた。
「イデオロギーの終焉」が叫ばれる中で、ワーキンググループは複数の展示物を結びつけ、アメリカの文化的な風景を一貫してプレゼンテーションするための接着剤となるイデオロギーを生み出すことを企図した。
シンポジウムのある参加者は「科学は文化や民主主義の敵ではなく友である」というスローガンにして、「科学は芸術を万人の財産にする。科学は階級を消滅させる。科学は平和に仕える。科学は世界と一つにする。科学は健康の源。科学は都市と田舎の差をなくす」というメッセージを掲げようと考えた。
このようにアメリカを階級のない社会として表現しようという観念は、「生活と仕事」分科会ではさらに発展して、「共産主義者が彼らの目標だと主張していることを、われわれはすでに実現した」、「共産主義者は階級を排除し始めたが、アメリカこそがすでに階級のない社会だ」ということを示したいという意見まで出ていた。なんとマルクスの肖像画を飾ろうという意見もあったというから(実現はしなかったが)いかに共産主義への対抗意識が強かったかがわかる。
こうしてシンポジウムの三日目、アメリカが今まさに沸騰している社会であることを示すことが中心的なテーマだということがおおかたのコンセンサスとなった。
文化のスプートニク
スプートニクが打ち上げられたのは、まさにこうしてBREがMITと白熱した議論を繰り返しているときだった。それまであまりブリュッセル万博に関心のなかったアメリカ国民も、この万博に一気に関心を持つようになった。議会は宇宙開発とブリュッセル万博の予算を大きく増やした。
万博総合プロデューサーのハワード・カルマンはアイゼンハワーに「適切な予算があれば、われわれは我が国のために文化的で、知的で、精神的なスプートニクを作ることができます」と進言した。彼はブリュッセル万博における展示がどのような文化的風景を描くかがアメリカの外交政策にとって中心的な問題であると確信していた。
「アメリカにはなにも隠し立てするものはないのだから」、この万博は「アメリカの物語を、完全な真実として、慎み深く、しかし確信を持って語るチャンス」であり、「展示がうまくいけば、これは共産主義のプロパガンダと戦う上で強力なPRのための武器になります」とカルマンは言った。
また、アメリカのパビリオンはパビリオンはローマ帝国や大英帝国のイメージをまとうことでアメリカの正統性を示そうとした。直径100m、高さ25mもある円形の外観はローマのコロシアムを模していた。屋根はプラスチック製で、鋼鉄のワイヤーでつり下げられていたが、これは1851年、大英帝国の絶頂期に開かれた世界最初の万博、ロンドン万博のクリスタル・パレスを今日的に変容させたものであった。
ガラスでできたクリスタル・パレスと同じように、アメリカのパビリオンの内部には大きな木が植えられ、プラスチックの屋根を通して明るい光に満ちていた。それはアメリカがオープンで自然な国であることの表現だった。出入り口は40カ所もあったが、これもアメリカのオープンさを示していた。しかし、鋼鉄のケーブルでつり下げられた90トンもある屋根は、アメリカの隠れた強さを表していた。
パビリオンのメインエントランスを入るとすぐに「アメリカの顔」という展示があった。それは巨大なアメリカの地図で、そこにはジュークボックス、自動車の免許証、カリフォルニアの木材、480ページもあるニューヨークタイムスの日曜版、アメフトのユニフォームなどが並べられており、アメリカが多様で予想もつかない国であることを印象づけ、アメリカとアメリカの物へのシンパシーを来場者に生み出した。

ブリュッセル万博1958におけるアメリカのパビリオン
「社会に役立つ原子力」という展示もあった。ここでは放射線を浴びせた食物を食べたニワトリが強く健康であるだけでなく、卵も質が高いと説明がされていた。こうした展示は、アメリカでは産業革命が今も続いていること、オートメーションがアメリカの生活水準を向上させ続けていることを見る者に感じさせようとしていた。
またこの展示はIBMの巨大なRAMACコンピュータによって囲まれており、RAMACはアメリカの歴史についての質問に10の異なる言語で回答していた。それはいかにコンピュータが個人の創造とレクリエーションの追求のために、物質的な豊かさと余暇時間を供給しているかを示すものであった。
RAMACの隣にはテレビスタジオがあって、カラーテレビが紹介され、またその横にはミュージックルームがあって、アメリカのポピュラーミュージックを選んで聴くことができるようになっていた。
ウォルト・ディズニーが制作した展示もあった。それはサーカラーマCircaramaというもので、アメリカを映画で旅するというものであったが、その映画の最後はコーラスが歌うGod Saves Americaで終わった。
ホットドッグを売るファストフード店やショーウィンドウなどの街角の風景も作られた。ミュージカルの公演もあった。フィラデルフィア・オーケストラによる演奏もエール大学ドラマシアターによる演劇もあった。ハリー・ベラフォンテやベニー・グッドマンのライブもあった。それらはすべて、核時代のアメリカ人が「豊かな人々」になったというメッセージを発していた。
しかし、ソ連のパビリオンにはスプートニクがあった。ソ連は自分たちの強さを誇示していた。来場者の関心を引く展示物としては、人類初の人工衛星の魅力がアメリカの展示よりも勝ったことは言うまでもなかった。
それでもブリュッセル万博は、その狙いどおり、東西両陣営の緊張緩和には役立った。そこで米ソは自国の文化を紹介する博覧会をお互いに相手国で開催することを決めた。こうして1959年、モスクワのソコルニキ公園でアメリカ博覧会が開催されることになった。これはロシア革命以来初めての米ソの文化交流イベントであった。アメリカは今度こそ「文化のスプートニク」をソ連にぶつける必要があった。
が、それは言い換えれば、本物のスプートニクを、つまり核弾頭をつけたミサイルの発射をさせないために、ソ連をなだめる必要があったということだ。その意味で重要なのが台所論争である。
台所論争
台所論争は、当時のアメリカ副大統領ニクソンが、フルシチョフ首相とアメリカ博覧会の会場の中にあるモデルハウスの台所の前で行った論争のことである。
ピカピカのキッチンのある郊外の住宅は、大量生産文化の象徴であり、当時のアメリカにおいて単に住宅政策・社会政策としての意味を持っていただけではなく、きわめて政治的・イデオロギー的に大きな意味を持っていた。
歴史学者のメイによれば、ニクソンは、郊外の家族を共産主義に対するアメリカの優位性を示すものと考えていた。アメリカ博覧会には多くの消費財やレジャー用品が展示場されたが、中でも原寸大でつくられたモデルハウスには、様々な電気製品や設備を完備していた。こうした住宅をすべての階級のアメリカ人が手に入れることのできるということが、共産主義に対する自由主義の優位性を目に見える形で証明しているとニクソンは考えた。
ニクソンはモデルハウスの前でフルシチョフに話し始めた。
「この展示会場にある住宅、自動車、テレビは、どれも最新の、最も近代的なタイプです。しかしアメリカでこれらの物を買うことができるのは金持ちだけか? どんな鉄鋼労働者でもこの家は買えるのです。」
しかし、フルシチョフはアメリカで建設される住宅が20年間しか使われず、建設業者が次々と安普請の新しい家を大量生産していることを非難し、「われわれが造る家は頑丈ですよ。われわれは子どもや孫のために家を造っているのですからね」と言った。
ニクソンはまた語った。
「われわれにとっては、多様性、つまり選択の権利が最も重要です。われわれは、一人の政府高官が下したひとつの決定しかない国ではないのです。われわれの国には多くの異なる製造業があり、多くの異なる種類の洗濯機があり、主婦たちはそこからひとつを選べるのです」「アメリカでは、洗濯機は女性の労働を軽減するために設計されています」「女性に対するこういう態度は国を超えて普遍的なものだと私は考えます。われわれは女性の生活をもっと楽にしたいのです」「ロケットの強さを競うより、洗濯機の長所で競争した方がよくありませんか」「こういう競争をしているかぎり、だれも負けないし、万人が勝者になるわけですから」
このようにニクソンはそのアメリカン・ウエイ・オブ・ライフを、共産主義と戦い、ソ連の核ミサイルに立ち向かう武器として位置づけ、それを平和な郊外住む中流家族の女性と結びつけて説明したのであった。歴史学者のメイによれば「これは軍備競争でもロケット競争でもない。家族を中心とする消費者の競争だった」。
男性は仕事に専念し、給料を稼ぎ、郊外に家を買い、家の中を家電や家族用品で埋め尽くし、自動車を買う。女性は家事・育児専門の専業主婦となり、アメリカの最新技術の粋を集めた製品に囲まれて平和で幸福な家族を築き、夫の出世を支え、子どもがより高度な教育を受けられるように世話をする。そういう家族像、女性像がニクソンの理想であった。しかしそれは単に家族の理想であるだけでなく、冷戦時代を闘うためのアメリカという国家にとっての理想であり、武器だったのである。
独裁政権をミサイル攻撃しようとする現在のアメリカを見ると、ミサイルよりも台所を重視した当時のアメリカはバラ色の雰囲気に包まれて見える。しかし、独裁政権を崩壊させた後に彼らが建設しようとする「民主主義」が、実は「大量消費」の別名であることことは周知の事実だ。だが、まさに誰もが郊外の家に住んで大量の消費をする社会こそが、20世紀のアメリカが共産主義やファシズムなどへの強い対抗意識と危機感の中から必死で生み出した理想であり、同時にきわめてイデオロギー的な武器なのである。
家族の価値
こうして冷戦時代のアメリカにおいては、郊外の家族に大きな価値が置かれ、家族のために消費することが社会の安定と正当性を証明する手段であると考えられるようになった。ファミリールーム、ファミリーカー、ファミリーフィルム、ファミリーレストラン、ファミリーヴァケーションなどの言葉が新しい郊外のライフスタイルの中にあふれた。
しかし、それまで実用性や禁欲を美徳としていたアメリカ人は、家族の中で消費生活が急激に拡大することに対して良心の呵責や道徳の頽廃への恐れを感じた。が、個人の贅沢のためでなく家族のために消費をすることはそうした気まずさを軽減し、むしろ「消費は美徳」(virtuous consumerism)という考え方が生まれた。
一見贅沢な消費生活も、それがむやみに装飾的でなく、実質的なものであり家族のためであれば、浪費ではなく正しい消費であると考えられた。むしろ、家族中心の消費による豊かさはアメリカン・ウエイ・オブ・ライフを強化するものであると信じられるようになった。
テレビドラマや広告はこうした家族消費を促進するメディアとして機能した。消費はアメリカン・ウエイ・オブ・ライフを、すなわち、階級のない、均質な、家族中心の生活を、人々に浸透させ、信仰させる手段だった。大量消費による「豊かな生活」を満喫する家族そのものが、あきらかに冷戦時代のアメリカが生み出した、核兵器と並ぶイデオロギーの兵器だったのだ。
一方では軍拡によって、他方では「消費する家族」というイメージ兵器によって、アメリカは東側と対峙した。そしてその兵器は大量生産されたのである。そしてイームズもまたそのイメージ兵器をデザインした。
マルチスクリーンという手法
アメリカ博覧会を担当したのは連邦情報局である。博覧会はアメリカについての現実的で信頼の置けるイメージを提供することが目的だった。すなわち、アメリカのアイデンティティはその多元性にあること、多様で、複雑で、ダイナミックな成り立ちをもち、その文化は今も常に進化しているということをプレゼンテーションする必要があった。
情報局のデザイン・建築担当部長のジャック・メイシーはまず博覧会のデザイン監督にジョージ・ネルソンを、メインパビリオンの設計者にバックミンスター・フラーを任命した。官僚的な情報局との交渉にネルソンは手を焼いた。しかしイームズを全面的に参加させること、そしてアメリカが変化し続ける社会であることこそがこの博覧会の最も重要なポイントであること、という2つの点は両者は合意した。
ネルソンは早速カリフォルニアに飛んで、イームズを説得した。イームズに依頼された映画のタイトルはGlimpses of the U.S.A.。「ちょっと見てみたアメリカ」という。テーマはA day in the life of the U.S.つまり「アメリカの一日の生活」だった。契約は「現在のアメリカの事実の物語に対する理解と信用を与える」ことだった。
また映画の目的は、会場に展示されたアメリカの消費財が試験的なプロトタイプではなく(それならソ連にもある)、すでに現実に大衆が毎日使える物になっていることを示すことだった。
正式に契約をする前から、イームズ夫妻、メイシー、ネルソン、そして映画監督のビリー・ワイルダー(彼はイームズ夫妻の親友だった)も加わって、3日間熱い議論が交され、博覧会の基本的な図式が見えてきた。
ネルソンはジオデシックドームの中でイームズの映像が流れれば、ドーム自体が巨大な情報マシンのように見える。だからドームには展示物は何も置かない。膨大な情報を小さな空間に圧縮するのだ。そのかわり、二番目のパビリオンは大量の消費財によって埋め尽くす。そうネルソンは考えた。
実際できた二番目のパビリオンはジャングルジムのような構造をしたガラスの館であり、RCAのカラーテレビスタジオ、グランドユニオン社のスーパーマーケット、ワールプール社の台所(ここで論争が行われた)など、5000点のアメリカ製品が陳列されていた。
さて一番目のパビリオンでイームズ夫妻はベーグルのような丸い大きなスクリーンに国土と人々と花のイメージを映し出そうと考えた。しかしネルソンはブリュッセル万博でのディズニーのサーカラーマCircaramaをヒントにして、マルチスクリーンで映像が規則的に入れ替わるような展示を考えた。たとえばミルウォーキーのスーパーマーケットが映ったかと思うと、次にはフォート・ローダーレールのスーパーマーケットが映る、そして次には、、、という具合さ、とネルソンは説明した。
美しき哉 アメリカ
ディズニーのサーカラーマは、その名の通り観客を360度取り囲むパノラマ的な映像であり、その内容はアメリカを紹介し称えるものであった。サーカラーマは最初は1955年に開業したディズニーランドのトゥモローランドに「サーカラーマUSA 西部の旅」というパビリオンとして登場したものである。それは当初は360度を取り囲んだ写真展示であったが、ブリュッセル万博においては動画の展示となり、以後、1960年にはディズニーランドの「サーカラーマ・シアター」となった。
その映像のタイトルが「美しき哉 アメリカ」America the Beautiful。そこからも、その思想性は容易に想像できる。それはディズニーランドによる「神の下にある国家」One Nation Under Godと呼ばれるプロジェクトの一環であった。「神の下にある国家」とはリンカーンのゲティスバーグでの有名な演説の一説である。実は、サーカラーマの映像展示が終わると、ディズニーお得意の自動人形であるオーディオアニマトロニクスによる「大統領の殿堂」という展示が始まり、そこでリンカーンの演説が始まるという仕掛けだった。つまり「美しき哉 アメリカ」は「神の下にある国家」アメリカを語るリンカーンの演説のための序曲だったのである。(いったいこの「神の下にある国家」がいかなる意図から企画されたものなのか、ここでは触れる余裕がないので、その検証はまた別に機会に譲りたい。)
このディズニーランドゆずりのマルチスクリーンという手法に情報局局長のジョージ・アレンは賛成した。その映像を見た人は、そこに映し出された製品がアメリカの人々によって広く買われているのだと信じるだろうとアレンは考えたのである。おそらくは、その展示手法だけでなく、「美しき哉 アメリカ」というテーマ自体も、アレンの気に入ったに違いない。アメリカの正しさ、その民主主義、多様性、選択の自由といった価値を短時間で効果的に示すには、マルチスクリーンという手法こそが効果的であるとアレンは考えたのであろう。
ここで気が付くのは1958年という時代は、アメリカ以外の国でもテレビもあまり普及しておらず、もちろんカラー映像もなく、海外からの中継もなかったということであり、その時代においてアメリカの豊かさは実際に見なければ信じられないものだったということである。日本人は進駐軍を通じて実際にそれを見た。ヨーロッパ諸国もそうだ。しかしソ連は見ていない。少なくとも一般の国民は全く知らない。そうした国民に対して博覧会は、アメリカの豊かさが現実であることを信用させるためにどうしても必要なものだったのだ。
アメリカの日常と多様性
そこで、まずイームズ夫妻は「ライフ」や「ルック」に載っている写真を切り抜き、それを投射しようと考えた。「ライフ」も「ルック」も世界中で読まれている雑誌だから、いろいろな文化の人々に理解できると考えたのである。1950年代のアメリカの思想そのものがそうであるように、イームズ夫妻の映画もたしかに商品資本主義をアメリカの民主主義と等しいものと考えていた。7面あるスクリーンそれ自体が、新しいメディアとしての物の多様性を示し、それがアメリカ博覧会全体のメッセージにもなると考えられた。

巨大なマルチスクリーンはディズニーの展示をヒントにしていた
だが、イームズ夫妻はすぐに気が付いた。雑誌に出ている「典型的な」アメリカ像では「いつもの、ほんとうの」アメリカを描くという目的を達成できない。そこには「親密さ」の情景が欠けている。家族とか、カップルがお互いにおやすみを言い合う風景とか、そんな毎日の生活にある情緒的な風景がない。そう考えたイームズ夫妻は、この映像展示のために特別に撮影した写真を追加した。
20フィート×30フィートの7つのスクリーンに、アメリカの東海岸から西海岸まで、次々と都市を巡りながら、旅をするというストーリーが展開され、まず9分間アメリカの7つの地域が描かれ、次の3分間で「典型的なアメリカの平日」が描かれた。2200もの写真(一部は動画)が次々と写し出された。
7つのスクリーンは11のテーマを持っていた。すなわち、アメリカの国土、アメリカの人々、アメリカは生きる、アメリカは働く、アメリカは旅をする、アメリカは学ぶ、アメリカは人間と宇宙を開拓する、アメリカは生産する、アメリカは消費する、アメリカは創造する、アメリカは遊ぶ、である。

アメリカの多様な生活がスクリーンに投射された
イームズのフィルムは「ライフ」や「ルック」の構造を土台としながらも、それらとは違う、より多様なアメリカを描こうとした。「ライフ」や「ルック」の描くアメリカは、周知のようにWASPのアメリカだ。しかも郊外に住む中流の家族ばかりである。それはたしかに理想化された明るい平和な家庭だ。
だが、それはあまりに画一的であり、同調性を強要するものであった。だからイームズの映画もたしかにハイウエイを描き、郊外の住宅地を描いたが、いろいろなタイプの住宅地を登場させた。郊外の対極にある都市を混乱したものとしてのみ描くこともなかった。摩天楼は遠景から写されるだけでなく近景からも写され、異なる表情を見せるビルの顔をクローズアップした。そこにはビルへの愛情があった。都市の無秩序と華やかなナイトライフも等しく描かれた。都市の中の食事の風景も、多様な民族が多様な食文化を提供していることが描かれた。レジャーも、ピクニックは階級に関わらず楽しまれ、ゴルフは中流が楽しみ、ヨットは上流が楽しむというように描かれた。アフリカ系アメリカ人たちも、野球選手やジャズミュージシャンとして登場するだけでなく、テニスコートや海水浴場にいる風景も描かれた。
また映画の中には70の工業プラント、42のダムや灌漑システム、35の異なる宗教の教会が登場した。様々な宗教の宗教行動も写し出された(それは「ライフ」や「ルック」にはないものだった)。
建築、絵画、彫刻、音楽などのハイカルチャーはもちろん、コーラスラインや混雑したスタジアムや野球場やレース場も登場し、そのほうがより重要に扱われた。またスポーツ用品やラジオやテレビだけでなく、祭、サーカス、花火、遊園地、凧揚げ、子供の自動車レース、川遊びといった風景も写し出した。
ビリー・ワイルダー監督の「お熱いのがお好き」におけるマリリン・モンローのワンシーンも使われた。モンローが大きくほほえんでウインクをするシーンだ。それはアメリカのフレンドリーさを表現していた。
そして終幕。イームズは映画をヒューマンで親密な基調で終わらせたかった。そこには情報局の役人たちが想像もしなかった映像が登場した。週末にお風呂に入ってリラックスしている人の姿や若いカップルが抱き合う夜の情景、人々が「おやすみなさいGood Night」と言っている情景などが写し出された。その「おやすみ」の言葉は映画の終幕を強く印象づけたが、形式的な「さようなら」よりも「これでもうおしまい」という印象が弱かった。「おやすみ」という言葉によって、お互いが心配し合う感情や友情を生み出されることを期待しながら、イームズ夫妻は映画の最後をある鉢植えの花のクローズアップでしめくくった。その花は忘れな草。英語でもロシア語でも「私を忘れないで」という名前の花であり、ロシアでは愛情と友情と思い出を意味する花だった。
できあがった映像のプレミアショーが始まり、フルシチョフ首相を含む1500人が固唾をのんでその映像を見た。フラーは、たくさんの色彩とイメージと音が見事に交響していることに驚きを隠せなかった。12分間の映像が終わると、観客の目には涙が浮かんでいた。フラーは言った。この映画は「人間の日常生活に関する普遍的な言語だ」と。
参考文献(順不同)
三浦 展、1999、『「家族」と「幸福」の戦後史−−郊外の夢と現実』講談社
三浦 展、2002、「ニューヨーク万博 あるいはアメリカのイデオロギーとユートピア」、巽孝之他編『ユートピアの期限』慶応大学出版会
A・J・ブーロス、1991、『現代アメリカデザイン史』永田喬訳、岩崎美術社
Kirkham,2001,Charles and Ray Eames,MIT Press
Neuhart,Neuhart,Eames,1994,Eames Design,Abrams
Rydell,1993,World of Fairs,Chicago University Press
The Works of Charles and Ray Eames,Abrams
Rydell and Gwinn ed.,1994,Fair Representation,VU University Press
イームズ・デザイン展カタログ、2001、アプトインターナショナル
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