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consumption012 消費の物語の喪失と、さまよう「自分らしさ」
大きな物語の喪失と消費の変質
明治以来、日本の国民は、近代化、富国強兵という「大きな物語」を共有していた。戦後は、国家主義的なアイデンティティは否定されたが、新たに高度経済成長、中流化という「大きな物語」が登場した。そこでは、戦前のムラと軍隊という共同体が企業という「生産共同体」として再編され、かつその従業員は「消費共同体」としての家族を形成し、二つの共同体が相互に補完しあいながら、社会を発展させる推進力となった。そこで国民は、その両輪の上に乗り、両輪を動かし、二つの共同体への所属感情を持つことによって、自らのアイデンティティを獲得した。つまり、仕事と消費が戦後日本人のアイデンティティになったのである。
また、高度経済成長期においては、「大きな物語」と消費とが密接に結びつけられていただけでなく、消費自体が「マイホーム」「ホワイトカラー」「三種の神器」などの物語を次々と生みだすことで、「大きな物語」を補強した。「消費は美徳」「大きいことはいいことだ」という言葉に象徴されるように、より多く消費をすることが国民、会社人、さらには家庭人としてのアイデンティティ形成にもつながるという効果があった(三浦、1999)。
しかしその両輪が今、どちらも溶解している。高度成長はとうに終わり、バブルははじけ、大手企業が相次ぎ倒産した。家族は、離婚の増加、晩婚化などによって、明らかにかつての「理想型」とは変質している。よって、われわれは高度成長期のように「大きな物語」に支えられながら自らのアイデンティティを持つことはできない(だからこそ「最後の絆」として愛国心と愛郷心と歴史教育の復権が声高に叫ばれる)。消費がアイデンティティに結びつくということもない。今や、消費者は自ら物語を創出しなければならなくなったのである。
こうした傾向はすでに1970年代以降次第に広まってきたものである。だからこそ、1970年代後半から80年代にかけて、パルコや西武百貨店の広告やマーケティングが注目されたのである。それは、それまでの国家や会社、あるいは家族という共同体の物語を捨てて、個人が自分で自分の物語を紡ぎ出す時代を先導することで消費者の支持を集めたからである。
実際当時のパルコは消費者は「創費者」へ変わったと宣言していた。つまり、現代の先端的な消費者は、消費することの意味を企業の発信するがままに信じるだけの「弱い消費者」から、その意味を鋭敏に感じ取り、取捨選択し、翻ってその意味を自分で創出し、自由に編集できる「高感度」で「創造的」な「強い消費者」に変わったと主張したのである(アクロス編集室、1985)。さらにパルコや西武百貨店の広告は、「女の時代」「じぶん新発見」「裸を見るな、裸になれ」といったコピーが象徴するように、消費することの意味と個人として生きる意味(自分らしさ)とを結びつけ、さらにそれを社会的な潮流と合流させることを企図したものであった。私自身、80年代はパルコでマーケティングや広報を担当していたので断言できるが、ビジネスとしてパルコが社会的に注目されたのは80年代であったが、パルコの思想の根底にあるものはきわめて60年代的な価値観である。それは個人の自由な生き方を制約する既存のエスタブリッシュメント社会体制を否定し、自由な個人の感性の力や主体性を信じようとする思想であった。
物語不在の時代から生まれたマニュアル志向
言うまでもなく「自分らしさ」もまたひとつの物語である。しかし現実にはその「自分らしさ」という物語を十全に生きることのできる消費者ばかりではない。そうではない非主体的な消費者のほうが多いのは当然だ。すると、非主体的な消費者たちは、自分が消費する意味を自分で見つけられぬまま物語不在の世界の中にさまよい出ざるを得ない。そこからまずマニュアル志向が生まれることになる。
80年代、「もてる男の子、女の子」という物語を軸にした「ポパイ」「JJ」といった若者向け雑誌が全盛期を迎え、中でも「ホットドッグプレス」はデートやセックスの仕方を事細かに教授するマニュアル雑誌として人気を集めた。ただ情報を羅列して、読者がそこから自分の気に入った情報を自分で検索しなければならない「ぴあ」のような雑誌とは異なり、マニュアル雑誌は読者に、ファッションはこれで決まり!セックスはこうしよう!と手取り足取り教えてくれた。
こうしたマニュアル的な雑誌作りは90年代になるとさらに加速化し、「東京ウォーカー」のように、映画もラーメン屋も花見もディズニーランドも誌面に載せて、今週は何を見て、何をしろと教える雑誌が膨大な発行部数を誇るようになった。また、女性ファッション誌は、月曜日から金曜日まで、少ない衣服をどのように着回せばいいかを事細かく写真入りで提案したり、体型や頭の大きさや肌の色の違いに合わせてどんなコーディネートをすればいいかを教えたりするようになっていった。
ファッションなどは所詮いつでもマニュアル的なものではないかという人もいるかもしれないが、しかし、たとえば60年代のジーンズやミニスカートは、単なる流行を超えて、若者、女性の自由、解放という、それはまたそれでひとつの大きな「大きな物語」を担っていた。それに対して、現代のファッションにはそんな「大きな物語」は存在しない。むしろ今ファッションは、太った自分や背の低い自分や色の黒い自分といった無数の個別の「小さな自分」の「小さな物語」(=自分らしさ)のための道具としてしか存在していないようにすら見える。
マニュアル志向から生まれた「自分探し志向」
しかし、こうしたマニュアル化傾向が極限まで進んでくると、当然の事ながら、マニュアル通りに生きる自分と、それに満足できない自分との間に分裂が生じ、「本当の自分」「本当の自分らしさ」への希求をますます強めるという循環構造が生まれ、「自分探し」ブームが拡大することになる。
自分らしさが見失われるということは、自分を構成する欲求が見失われるということだ。その意味で自分探しとは自分のほしいもの探しである。そうした時代の気分を最も端的に表現した広告コピーが「ほしいものが、ほしいわ」(糸井重里、西武百貨店、1988年)であった。つまり、自分がほしいものが見つかったときのときめきはほしいのだが、では自分がほしいものは何かというと具体的にわからない、それが知りたい、それがほしい、そういう「欲望を欲望する」消費者が増えたということである。言い換えれば、自分が何者かでありたいと思いつつ、それが何かがわからない。どういう自分が本当の自分なのか、どういう自分になりたいのか、それがわからない人間が増えたのである。だから「ほしいものが、ほしいわ」とは「自分らしさがほしい」「自分がほしい」と同義であったと言える。
これはまさにいわゆる近代的自我の問題であって、近代以前の社会であれば、自分が何者であるかは社会があらかじめ決定しており、本人はそれに疑いをあまり持たなかったし、そもそも持ってはならないとされた。個人を取り囲む社会は基本的には小さな地域社会に限定されており、よって個人は固定的で安定していた(というか個人はなかった)。人はその小宇宙の中で固定された役割を演じればそれでよかったし、そうするしかなかった。
しかし近代化の時代においては、自分が何者になるかは個人の自由な選択の対象となり、自分の生き方を自分で決め、自分の信念に従って自分の力で生きることがよしとされる(リースマンのいう「内部志向」inner-direction)。しかし、社会が豊かになると内部志向的な自己制御は不要になり、むしろ人々は他者の目を気にするようになる。そして、あまり目立ちすぎない微妙な差異を自分らしさ(personality)として表明するようになる(「他人志向」other-direction)(注1)。
「自分らしさの神話」
こうして、自分探しをする消費者は、自由であるが故に非常に不安な状態に置かれることになる。そしてその不安な心理状態はおおむね三つの消費行動を生み出すと考えられる。いずれも1980年代以降拡大してきた行動であると言える。
第一は「消費中毒」である。不安であるが故にますます物の消費を通して自分探しを行う方向である。
消費者の自分探し志向に気づいた企業は、90年代以降、自分探しを広告・マーケティングのテーマにするようになった。が、大量生産品と自分らしさとは本来相容れない。しかし多品種少量生産の技術が進むことによって、消費者ひとりひとりの趣味、嗜好、体質などに対応することがある程度可能になったのも事実だ。こうして、広告や雑誌記事の中に「自分らしく」「私らしく」という言葉があふれだした。今や、衣服や化粧品はもちろん、クルマも家電もマンションも旅行もクレジットカードも、自分らしさ、私らしさを最大の価値として訴求している。
企業にとっては、消費者に美しさでもなく、女らしさでもない、自分らしさしか提案できないというのは一種の敗北である。しかし消費者が求めるものが、特定の美しさや女らしさではなく、あくまで自分らしさだというなら、企業としては、その自分らしさをお手伝いしますよとしか言いようがない。
こうして、消費者自身の自分らしさ志向と企業による自分らしさ訴求との共犯関係によって、ますます「自分らしさの神話」が増殖していったのである。
消費の対象だけでなく、仕事も結婚も自分らしくなければならないと信じられるようになった。若者のフリーター、無業者の増加が問題になっているが、そのひとつの大きな理由は、今の若者が仕事を通じて自分らしさを感じたいと思っているという点だ。逆に言えば、たとえお金がたくさんもらえても、自分らしさを疎外する仕事は我慢ができないという価値観の若者が増えている。晩婚化が進んだ一つの理由も、若者が自分らしい結婚をしたい、自分らしい相手に巡り会いたいと思っているからだ。しかしそんな相手はそうそう簡単に現れない。よって結婚が遅れるのである。
こうした自分らしさ志向の土台に特段立派な思想があるわけではない。彼らは根拠なく、いつのまにか自分らしさ志向を持ったのだ。では何が彼らを自分らしさ主義者にしたのか。おそらく彼らを自分らしさ主義者にしたのもまた消費社会なのだ。
つまり、自分専用の部屋、自分専用のステレオ、自分専用のテレビ、自分専用の電話、自分に似合う(といわれる)服等々、そうした自分専用の「私物」の所有経験こそが、彼らの自分らしさ主義の土台になっているのである。
逆に言えば、彼らから携帯電話やMDプレーヤーやスニーカーやリュック等々の私物をすべて奪ってしまえば、おそらく彼らは彼らがこだわる自分という存在のあまりの軽さにたじろぎ、ひどく不安に陥るに違いない。物がなければ、自分らしさの根拠などどこにもない。まず自分らしさがあって物を選ぶのではなく、物を選ぶことで自分らしさが形成される(ように感じられる)のだ。かつては共同体における役割が自分らしさを支えたように、今は否応もなく物が自分らしさを支えているのである。
実際携帯電話を忘れると不安になる者が多いことは各種調査から明らかにされている(注2)。携帯電話の場合単に物として私物であるだけでなく、そこに記録された友人の電話番号や通信記録などによって自分の分身となっているため、持っていないとパニックに陥るのである。人をこれほどパニックに陥れる物が他にあるだろうか? 考えてみると、どうも女性にとっての化粧ポーチがそうらしい。化粧ポーチも女性にとってはまさに自分づくり(make!)に必須だからであろう。
永遠志向と自己改造志向
不安な消費者がとる消費行動の二番目は「永遠志向」である。具体的には海外高級ブランド志向がそれに当たる。海外高級ブランドは、消費者の自分らしさに近づくのではなく、消費者がブランドらしさのほうに近づくべきだという態度を保持している。自分らしさなどという「ぬるい」次元を越えた絶対的なものとしてブランドは君臨する。不安な現代人は、高級ブランドが生み出す永遠性という強力な物語に惹かれるのである。最近の京都ブームなどもこの一種かもしれない。
高級ブランドや京都ほど正統的ではないが、リバイバルブームやレトロブームも「永遠志向」に近い。その対象はグリコ、ディスコ、平凡パンチ、ビートルズなど様々だ。大衆文化は本来フローの文化であり、ある一時期に売れても、いずれ消滅し、次の文化に取って代わられるものだと思われてきた。しかし、大衆文化も時間と共に蓄積されて資源になるということをリバイバルブームは証明している。つまり、新しい物(語)をつくらなくても、古い物(語)だけで消費者が十分満足する時代になったのだ。これを私はかねてから「大衆文化のストック化」と呼んでいる(三浦、1992)。資産が100万円しかなければ、どんどん働いて稼がなければならないが、資産が10億円あれば、その運用益だけで暮らせるので、がつがつ働く必要はない。それと同じで、文化もフローしかなければ、次々と新しい流行風俗、ヒット商品を作り出さなければならないが、ストックがあれば、それを使い回すだけでよくなる。企業から見れば、まったくの新製品より、消費者の認知度も好感度も高いかつてのブランドを利用した製品のほうが安心して市場に投入でき、売上も確実に読めるという効果もある。古い物語の使い回しで十分なのである。
不安な消費者の第三の行動は「自己改造志向」である。それは、高級ブランドであれ何であれ、物を消費することでは所詮自分らしさやアイデンティティは実現できないことに気づき、自分自身を変えようという態度であり、内面的な自己改造と外面的な自己改造の二つの方向がある。内面的な自己改造として代表的なものは、様々な自己啓発や稽古事を行う「学習志向」である。外面的な自己改造としては、茶髪、ピアス、タトゥー、整形などの「肉体改造志向」がある。肉体改造志向には、より一般的なものとしてフィットネス、筋力トレーニング、ヨガ、さらにサプリメントなども含まれよう。
東電OLコンプレックス
上記の三つは消費と関連した行動の類型なので、人間の類型ではない。よって一個人の中には、これら三つの志向性がそれぞれ異なる比重で併存することも考えられる。またこの行動類型は消費行動以外の志向性をカバーしていない。
たとえば、今や総合職女性などにも拡大してきた仕事中毒は、消費ではないが、自己実現志向の現れであると同時に、一種の自己不安解消のための行動であり、先述した内面的な自己改造としての自己啓発志向、学習志向の延長線上にあると言える。つまりは「仕事によって変わる私」志向である。仕事によって変わる私という言説は、1970年代以降着々と拡大してきたものであり、その土台として『とらばーゆ』などの転職情報誌が重要な役割を果たしたことは言うまでもない。
だが女性の場合、仕事による自己実現が、女性としての自己否定につながる場合しばしばありうる。つまり不安解消行為がさらなる不安を生み出すのである。
そこで、失われた女性性を代償する必要が生じ、一時期話題になった「東電OL」のように、一流大学卒、一流企業社員でありながら、むしろそうであるがゆえに売春という形で自分が女であることを確認しなければならないという事態が生じてしまう(注3)。
売春は極端としても、現代の働く女性は、仕事を通じて自己実現をしながら、他方では仕事だけでは満たされない自分を、先述した中毒的消費、ブランド消費、化粧、癒し、セックス等々、さまざまな方法によって埋め合わせなければならない。いや、たとえ仕事だけで満たされていたとしても、仕事だけで満たされたと感じてはいけないのだ。現代の働く女性は、男性並みに仕事ができる自分(生産する自分)と、美しくセクシーな自分(消費する自分)という二つの顔を持ち合わせなければならないのである。
特に近年は、第2次ベビーブーム世代が30代となって「負け犬」女性が激増しているために、ますますその「二つの顔」志向が強まっている。高学歴化した第2次ベビーブーム女性は、多くが企業の中で総合職として男性並みに働き、すでに係長、課長になり1000万円近い年収を稼いでいる者すら珍しくない。しかし、肉体の衰えはどうにも隠しきれない。
こうして女性たちは、さまざまな方法で自分の中の欠落感を埋め合わせようとする。企業はその欠落感に訴求して、「仕事も、消費も、セックスも」といったメッセージをますます発する。そして、そのメッセージを受信した女性たちは、仕事も消費もできる美しい自分という自己像を肥大化させていく。言い換えれば、消費も仕事になるのである(注4)。
こう考えると、最近の高学歴女性タレントブームを代表する菊川怜や六條華がお堅い東大生のイメージとは対極的なセクシーさをあえて売り物にする心理は「東電OLコンプレックス」とも言うべきものだと思われる。彼女たちが代表する現代の女性たちは、まさに「仕事も、消費も、セックスも」する女性というイメージを生きたい(生きざるを得ない)のである。
「複数の自分」と「ぷちナショナリズム」
このように本当の自分らしさを求める自分と、それに対応して多様な自分らしさを提案する企業は明らかに共犯関係にある。消費者は企業が発する自分らしさ情報を受信し、自分にフィードバックする。すると消費者の中には、今ある自分らしさへの疑念がつねに生じるようになり、さらに本当の自分らしさを探し出すというように、自分探しの循環運動が拡大してしまうのだ。
しかし、この共犯的循環運動は、唯一の確かな自分らしさの獲得に向かって収束はしない。むしろ最終的に消費者は、複数の自分らしさを受け入れるという態度をとるようになっていく。どうやっても、本当の全面的な自分らしさは獲得できない。それを追求しすぎれば自分を宗教や国家などの「絶対」らしきものにゆだねる危険がある。それはだめだ。とすれば、実現できるのは自分らしさのほんの一部でもよい、それは本当の全面的な自分らしさではないということは承知の上で、部分的な自分らしさにまた別の部分的な自分らしさを重ねて描きつづけ、たとえそれら同士が相互に矛盾しても、その重層的な仮面の姿を本当の自分とみなすしかない(重層的な非決定!)。重層的な仮面は、少なくとも嘘の自分ではない。こうして、ここに「複数の自分」という現代独特の自己意識が生まれることになるのである(注6)。
企業にとって、自分らしさ神話の戦略は消費者を簡単に踊らせる手法というわけではない。およそ共犯関係というものがすべてそうであるように、共犯者同士はつねに相手を疑い、相手から裏切られる。同様に、「複数の自分」を持つ消費者は、企業にとってはますますとらえがたいものに「進化」してしまっていると言える。
実際、「複数の自分」を持つ消費者の増殖は、不可解な現象を生み出す。音楽CDが典型的だが、一部のCDが数百万枚のメガヒットとなる反面、数百枚単位で売れるマニアックなCDも確実に存在するが、他方では、数万枚の定番的なヒットがなくなるという事態である。これは「複数の自分」という視点を導入しないと理解できない現象である。
かりに100万人の消費者がいたとしよう。そして彼らがそれぞれ一貫した一つの自分を持っていたとしよう。彼らの25%が同じ志向性を持っているとすれば、25万枚のセールスが期待できる。
ところが彼らがそれぞれ四つの自分に分裂していたとしよう。すると100万人でありながら「自分」の数は400万ある。400万の「自分」が25%支持すれば100万枚のセールスが可能になる。つまり100万人全員が同じCDを買うということが起こる。これがメガヒットのからくりだ。
つまり、現代の消費者(特に若者)は「複数の自分」を持ち、そのうち一つを必ず「みんなと同じ自分」、つまり「同調する自分」として持っている。同時に彼らは「人とは違う自分」、つまり「差別化する自分」を持っている。「同調する自分」に訴求すればメガヒットが生まれ、「差別化する自分」に訴求すればセールスは極小化する。逆に、「ひとつの自分」の時代のような中くらいのヒットが生まれにくくなるのである。
ところで「複数の自分」による最大のメガヒットは何だろうか。宇多田ヒカルでもなければ、B’zでもない。それは「ぷちナショナリズム」であろう(注6)。古いナショナリズムは、唯一絶対の自分への信念を国家に収束させるものだ。最上位に国家があり、それがムラ、イエ、個人へと波及し、個人のアイデンティティを規定する。いわば同心円的なナショナリズムである。そこには強制があり、上からの同調圧力がある。
対して、「複数の自分」たちの中心には国家はない。しかし彼らの中には必ずどこかに国家がある、だからこそワールドカップのような特別なイベントに際して、ぷちナショナリズムは一気に発現する。そこには強制はないが、横からの同調圧力があるのかもしれない。日本のチームがワールドカップに出る、応援して当然でしょ、という素朴で柔らかな、しかし確実な圧力があるように見える。
その程度の「薄い」ナショナリズムに危険はないとも言える。しかし「薄い」からこそ危険だとも言える。「複数の自分」たちは、衷心から国家を崇拝することはない。しかしい同様に国家に抵抗する力も弱い。ある一時に国家をメガヒットさせることはある。
食べることが面倒くさい
ここまでは消費の物語の喪失と「自分探し」という観点から、消費者が「複数の自分」という新しい自我を持った存在に変質してきたことを見てきたが、次に少し視点を変えて、特に若者の食、性、ファッションの各分野について、私が最近考えていることを述べてみる。
私は以前、ある生活研究シンクタンクの研究員のコメントを新聞で読んで「へえ」と驚いたことがある。同研究員が高校生の食生活を調査したとき、高校教員の意見として「食べることを楽しいと感じない、面倒と思う子が増えてきた」という声が目立ったというのである(「東京新聞」2003年1月13日)。しかし、この話を知り合いの食品メーカーの人にすると、食べるのが面倒くさいという感覚があることは食品業界では数年ほど前から常識だと言われてしまい、また驚いたのである。
だが、よく考えてみると、今の若者はきっと食べることに関心がないのだろうなと思ったことは私にもあった。私は若者の行動を観察するのが仕事の一つだが、その私が近年関心を持って調査しているのが、いわゆる「歩き食べ」だ。電車の中でも歩きながらでも、ところかまわず物を飲み食いする、あの行儀の悪い行動である。なぜ若者は(最近は若者だけではないが)歩き食べするのか。いろいろ理由はあるだろうが、きっと食べるのが面倒くさいのだろうなと思ったのである。私が独自に行った若者調査(注7)でも、食べるのが面倒くさいと思ったことがある者が全体の1,2割いた。
食べることが好きで、おいしい物が食べたいと思えば、それなりの店に行って、それなりのお金を払って、それなりの物を、それなりの流儀に則って食べるだろう。それをしないで歩きながら食べるのは、そもそも食べることに関心がないと考えられるのだ。極端にいえば、現代の若者は、できれば食べないで済ませたいのである。が、どうしても腹はへるので仕方なく食べる。だから、楽しい必要はないし、歩きながらでも十分だというわけである。
食欲が不快に感じられる
ではなぜそれほど食への関心が薄れたのか。ダイエット情報が行き渡り、やせたい人が増えているからという理由もありうる。が、そもそも食べ物が溢れすぎているために、かえって食欲が減退しているのではないだろうか。
欲求の基本的な源泉は不足である。人は足りないものはほしいと感じる。有り余っているものはあまりほしいと感じない。ここで食べておかないと今度はいつ食べられるかわからないと思えば、多少まずい物でもよろこんで食べる。ところが現代の生活は、コンビニにもファミレスにもファストフード店にもデパ地下にも、そして駅のプラットフォームにすら、いつでもどこでも食べ物が溢れている。いつでも手に入ると思えば食べる気が薄れるのは当然だ。食べ物が多様に大量に目の前に存在し、それを自由に選択できるにもかかわらず、むしろそれだからこそ、かえって食べることが面倒になっているのだ。
それはちょうどわれわれが、情報社会の中で、過剰な情報の洪水を処理することができずに、ただ流れている情報をぼんやりと眺めるしかできないでいる状況とよく似ている。ほしいとも言わないのに、つまらない情報が大げさな演出を施されて24時間垂れ流されている。いや、ものすごい圧力で放出されている。ピンク色の巨大な「だが!」とか「しかし!」といった文字が踊る画面をわれわれは否応もなく見せつけられる。そういう情報環境の中で、われわれは情報がほしいという気持ちをむしろ阻喪されるだろう。食についても、それと同じ状況が起きているのだ。冷静に考えれば異常なほど大量の食欲刺激がなされている。こういう中で、正常な食欲を維持し、正常な食生活を営むことは難しいであろう。「ほしいものが、ほしいわ」の時代の、欲望を欲望するという感覚が消失しつつあると言えるだろう。
欲求の統合ができない
私があるとき若者に行ったインタビュー(注8)でも、一体自分がいつ何を食べたいと思うか予測がつかないので、あらかじめ食品を買いだめできないという意見があった。スーパーに行って安いものを買いだめしても、結局食べきれないという。食べきる前に他のものがほしくなるからだ。だから買いだめせず、何か食べたくなったら、たとえ夜中の2時でもコンビニかドンキホーテに駆け込む方が無駄がないらしい。若者は(若者だけはないが)、腹がへったと内発的に感じて物を食べるのではなく、偏在する食物情報によって刺激されて、その刺激がいつか突然欲求となって現れるということである。
もちろん、その欲望刺激システムは食に限らず消費資本主義の大前提であるから、今更それを指摘するほどのことではない。しかしそのシステムがいまあまりにも肥大化していることは改めて指摘しておいてよい(ユビキタス社会になればなおさらだ!)。テレビや雑誌ばかりみている人間の食欲は、あきらかに制御不能なレベルに達している。若者の食欲は明らかにメディアを通じてつくられた人工的なものであり、その意味で刺激(広告)に対する反応(消費)でしかない。彼らは刺激されるままに不規則に少しずつ食べる。だからいつもある程度空腹が満たされている。だから本当に腹ぺこになったことはあまりない。逆に、本当の満腹感も味わったことがないのである。
しかしこうなると、食欲を満たすことは幸福感にはつながらず、むしろ食欲は、食べても食べても決して満たされることのないもの、むしろ、いつ何時自分に襲いかかってくるかも知れない不快なもの、不気味なものとして意識されるようになる可能性がある。それが、若者が食べることを面倒くさいと思うようになった理由ではあるまいか。そして若者は、いつ何がほしくなるかわからない自分というものをもてあますようになった。自分がわからなくなったのだ。
それは先述した「ほしいものが、ほしいわ」という感覚とは、似ているようで少し異なる。「ほしいものが、ほしいわ」の時代においては、そう思っている自分を疑っていない。何かをほしいと思っている自分を、自分は好きだと思っているし、ほしいものが見つかったときの自分は幸せだと思っている。
それに対して、突然自分に襲いかかってくるかも知れない欲求をもてあましている現代の若者は、その欲求をもった自分をわかるとか好きだとか幸せだとか思いにくくなっているのではないだろうか。
自分がわかる、あるいは自分がある、という感覚は、自分が何がほしいか、何がしたいか、何になりたいか等々の欲求を自分で統合しているという感覚であろう。
欲求が統合されていれば、自分は音楽が好きだから、音楽関係の仕事がしたいというように、自分を見つめることで自分の人生を計画することができる。それはアイデンティティを確立したという感覚だとも言える。
対して、自分がわからないということは、自分の欲求を自分で統合ないでいるということである。統合するには、あまりに自分の欲求には脈絡がなく、突発的に現れすぎる。それが本当に自分の欲求なのかすら不明である。自分をわかるということが困難になっているのだ。
もはや自分は統合されたひとつの「アイデンティティ自分」ではない。自分の内部に唯一のたしかな自分があるのではなく、自分の外部に自分でも知らないいくつもの自分があると感じられるのだ。まさに「複数の自分」である。そして、この「複数の自分」こそが、自分をわからなくさせる源泉であり、自分に不快を感じさせるのである。
青少年研究会が1992年と2002年に行った調査でも、この10年で、「自分らしさがある」と「自分を好きである」の関連は強まったが、「場面によって出てくる自分は違う」と「自分らしさ」は関連が弱まり、「自分が嫌いである」との関連は強まったという(浅野、2004)。つまり「複数の自分」をもてあます、あるいは不快に思う若者が増えたのではないかと推測されるのである。
私なりに世代論的に考えても、この変化は納得できる。同調査の対象者は16−29歳であり、92年のそれは1963〜76年生まれ、マーケティング的に言えば新人類世代を半数含む(注9)。彼らは高度成長期に育っており、親は昭和ヒトケタ世代で自身が高度成長の中心的担い手である。よって新人類世代までは、唯一のたしかな自分の追求が正しいことであるとまだ信じられていた。だからこそ、80年代以降、複数の自分を増殖させる消費社会の潮流の中で、新人類世代はマニュアル文化と自分探しブームの担い手になった。自分探しに「はまった」者の一部は自己啓発か新宗教に没入した。新人類世代はオウム世代でもあるのだ。
こういう新人類世代の中で、軽やかに複数の自分を肯定できたのは、消費志向の強いタイプの人たちである。「私はこれも好きだが、あれも好き。それは理屈じゃなくて感覚の問題」という感覚が「複数の自分」を肯定する感覚である。彼らのバイブル『なんとなく、クリスタル』を書いた田中康夫が「ルイ・ヴィトンも岩波文庫も、それを所有することのブランド価値は等価だ」と看破したのは偶然ではない。そして吉本隆明はコムデ・ギャルソンを着て『アンアン』に登場する。そうした重層的な非決定的状況の中で、クリスタル世代としての新人類世代は消費社会の中の「複数の自分」を祝福できたのである。
対して2002年の調査対象者は1973〜86年生まれである。彼らは大半が団塊世代以降の子供であり(注10)、言い換えれば両親共に戦後世代の子供である。よって親の価値観はあらかじめ相対主義的傾向を強めており、子供は親に反発することもあまりなく成長してきた。つまり、唯一絶対のものなどないのだから、自分も、自分の生き方も唯一絶対であるはずはなく、自分が好きなようにやればよいという価値観で育ってきた。だから彼らは自分らしさを所与の自然権として肯定する(注11)。しかし、だからこそ彼らは自分らしさの実現が何らかの束縛からの解放という価値であるとは昔ほど感じていないとも考えられるし、逆に、自分らしくすればよいという寛容を、自分らしくあらねばならぬという命令と感じ、それを不快に感じたとしてもおかしくない。
もちろん、こうした若者の自分らしさ志向の変化には、経済、雇用、就職などの情勢の変化も反映していると考えられるが、紙幅の都合でこれ以上詳述できない。
性欲も減退と消費の低迷
俗説の域を出ないが、若者の性欲の減衰も近年しばしば指摘されている(注12)。その理由としては、仕事上のストレス、コミュニケーション能力の低下、過剰な清潔志向などと並んで、性情報の氾濫も挙げられている。たしかに、食欲と同様に性欲も、アダルトビデオやインターネットなどにより、24時間、いつでもどこでも昂進されるものになっている。すると性欲も、満たしても満たしても決して満たしきることのできないもの、いつ何時自分に襲いかかってくるかも知れない不快なものとして意識されるかもしれない。
マーケティング業界では、若者の性欲の減退が消費の低迷の一因であるという説もある。しかしそれは物語の喪失という観点から見てもあながち珍説とは言いがたい。少なくとも1980年代は、アッシー、メッシー(女性にとって運転手であり、食事代のおごり役の男性という意味)という流行語に象徴されるように、男性が女性を誘うには、自動車での送迎と高価な食事が必須だった。クリスマスイブともなれば、BMWで迎えに行き、フランス料理を食べ、カフェバーでカクテルを飲み、半年前から予約を入れたベイエリアのホテルに向かい、ティファニーの三連リングをプレゼントして、そしてようやく事に至ることができると言われた(今こう書いていても、ほんまかいなと思ってしまうが)。一回のセックスに至るまでに相当な金額の消費が必要だったのだ。
ところが現代の若者は、たとえば渋谷の駅前で待ち合わせるとラブホテルに即行するという。どうせ最後の目的はセックスなのだから、最初から行けばいいと考えるらしい。そこには事に至るまでのプロセスがないので、消費が生まれないというのである(この説は実際に某広告代理店の人が私に話した説であり、私も納得している)。
事に至るまでのプロセスをパスしてしまう彼らの行動からは二つのことが言える。ひとつは、彼らが自分の欲求の充足を先延ばしして我慢することができないということ。第二は、彼らには役割演技をする意識が希薄だということだ。セックスという目的のために、かっこいい男や、かわいい女を演じるなんてことは、まだるっこしくてできないのである。
セックスそれ自体は本来消費行為ではない。しかし、ベイエリアのホテルやティファニーの三連リングがないと成立しないセックスは消費的である。他方、会ったその場で意気投合して行うセックスは消費的ではないだろう。だが、人間は動物とは異なり、記号と物語を生きる存在である。存在の意味に飢えるのが人間だ。とすれば、野良犬のようにその場の意気投合のみで行うセックスより、消費的なセックスのほうが人間的だと言える。もちろんフランス料理やベイエリアのホテルを介在させないと成立しないセックスは奇妙である。が、それは一定の物語(シナリオ)をふまえてクリスマスイブの男女という役割を演じ、恋愛にまつわる記号を交換しているという意味ではきわめて人間的であり、文化的である。対して現代の若者のセックスが意気投合型なのは、彼らがその種の物語を信じていないということであり、そもそも物語が存在していないということであろう。考えてみれば、コンビニで、おにぎりやお菓子の隣にアダルト雑誌が置かれているという状況も、隠された秘め事としての性の物語性を希薄化させていると言えるであろう。
記号消費の対象の逆転
次にファッションについて考えてみよう。
私はマーケティング調査で若者にインタビューするとき、ほとんどの場合、よく行く店、好きなブランドをたずねるが、最近の若者は店やブランドの名前が出てこないことが多い。私が80年代にパルコで行っていたインタビューの経験では、当時の若者は驚くほど自分の持ち物、衣服について、それをどこでいくらで買ったかを覚えていた(注13)。それに対して最近の若者は、服をどこで買ったかを尋ねても「そこらへん」としか答えない。一面では消費中毒に見える現代の若者は、他方では消費に対して無頓着であり、「無意識」なのである。
なぜか。いくつかの理由が考えられるが、先述した食欲や性欲との関連で言えば、物が溢れすぎているために物欲が減退しているように思われるのだ。物が不足していれば、それをどこで手に入れられるかは貴重な情報になる。実際に手に入れれば、それをどこでどうやっていくらで入手したかを忘れることはない。山に住む農民が松茸のとれる場所を誰にも知らせないのと同じだ。新人類世代が若かった頃はブランド物がそうだった。パルコにすらルイ・ヴィトンの店はなかったのだ。
しかし今はたいていの物が日本中で手に入る。鳥取でも青森でも、ロードサイドショップには最新のファッションが揃っている。まさに「そこらへん」で「無意識」に手に入れることができるようになったのである。どんな田舎でも、というより田舎だからこそ、巨大なショッピングセンターがあり、そこにはナイキやアディダスのトレーナーやスニーカーが溢れかえっている。その数は同じショッピングセンターにあるキャベツやジャガイモの数よりも多いようにすら見える。
とすれば、そこでナイキやアディダスを買うことは、もはやブランド消費でも記号消費でもなく、キャベツやジャガイモを買うことと同じような消費、つまり半ば生理的欲求を満たすだけの消費になっている可能性がある。あるいはティッシュペーパーを買う感覚に近いと言った方が正確だろうか。いずれにしろ、ブランドの記号的価値に金を払う消費とは性格が異なる。ましてユニクロや100円ショップとなれば、何を買おうと、記号消費的な欲望よりも、生理的な欲求を満たす感覚に近いと言える。
もはやナイキもアディダスも、それを買う者のアイデンティティとは無関係だ。ユニクロ、GAP、コムサは言うに及ばず、ナイキもアディダスもリーバイスも、ファッション独特の記号消費の対象ではなく、基礎的食糧と同じ生理的欲求充足のための手段に近づいているのだ。昨日食べたキャベツやジャガイモのブランド名をいちいち覚えている人はいない、食べたジャガイモがその人のアイデンティティにはならないのと同じである。
いや、むしろ今日では、基礎的な食糧の方が、「有機農法」「○○県の農家○○さんの作った○○」といった表示によってブランド化し、記号化している。あるいは選択的消費の対象になっている。それに対して、ナイキやアディダスは、少なくともスーパーで売っているような一般向け普及品は、いわゆるブランド性や記号性を希薄化させている。だから、キャベツやジャガイモが記号消費であり、ナイキやアディダスが生理的欲求充足の手段であるという、奇妙な逆転が起きつつあるとも言えるであろう。
もちろん、そもそも食欲も性欲も生理的欲求だ。しかし文明化の過程でこれらは文化的記号となり、階級や趣味などを表現するようになった。だが過剰な大量消費社会の発展と氾濫する記号消費の果てに、現代の若者の食や性は、今や記号性を拒否し、ただ腹が減れば食べ、セックスしたいときにするというように、単なる生理的欲求の充足に後戻りしているようにも見える。
「女性らしさの神話」の溶解と「フツーでいい」私
もうひとつファッションについて、性意識との関係で述べておきたい。
現在、若い女性のファッションはかなりの割合で非常に中性的である。いや、中性を通り越して「無性的」ですらある。ジェンダーアイデンティティは相当崩壊していると言える。
少なくとも20世紀半ばまでの支配階級、中産階級のファッションはしばしば男らしさ、女らしさを過度に強調するものであった。そしてそうしたファッションが大衆的な欲望になり得たのは、大衆の中に中産階級への上昇という物語が存在していたからである。
しかし1960年代以降、女性たちは「女らしさの神話」からの解放を訴えるようになり、バブル時代のボディコンのような「反動」もあったが、基本的には過去30年間「女らしい」ファッションは次第に衰退してきたと言える。特に近年、急激に女性のファッションの男性化が進んだ。女性らしさを強調するタイトなスカートやハイヒールは特殊な業界の女性以外はほとんどはかなくなり、近年はだぼっとしたジーパンの上にスカートをはくという奇妙な着こなしが流行している。これは考えてみれば、男性性と女性性のあいだで微妙にゆらぐ心理を表すファッションだと言える。
実際にそうした無性的なファッションをしている女性(18−21歳)にインタビューしてみると興味深いことがわかる(注14)。まずファッションのポリシーは「楽」という意見が最も多く大体三割くらいいる。次に「自分らしい」「きまりすぎない」がそれぞれ一、二割いる。「個性的」という回答は皆無であり、人と違うこともあまり求められていない。ファッション以外でも自分らしくありたいかという質問には七割がイエスと回答しているが、自分らしさとは何かを尋ねると、積極的な長所を挙げる者は少なく、むしろ「まわりを気にしない」「思うままにできる」「マイペースなところ」という回答が多い。
ほとんどの女性は男性の目をあまり強く意識していない。その理由は、「どうでもいい。その人がよければいい」「男の目を気にしているのはイヤ」「気にしすぎると自分ではなくなる」「気にしてたけど、そんなにこだわる必要もない、自分じゃなくなっちゃう、つくっちゃうから」などであり、女性らしさがしばしば自分らしさを否定すると感じていることがわかる。また人生観を聞くと、ほとんど全員が「楽しく生きる」「マイペースで生きる」「自分らしく生きる」「自分のやりたいことをやる、やりたくないことはやらない」「なるようになる」「あせらずのんびり生きる」と答える。
こういう回答を見ていると、彼女たちにとっての「自分らしさ」とは、明確に定義のできる、他人との違った個性ではなく、単に「楽であること」や「マイペース」の同義語なのではないかとすら思えてくる。「女らしさ」「若者らしさ」「高校生らしさ」といった既成の役割を演技すること、つまり「らしさ」を苦痛として拒否し、その苦痛から解放された楽な状態を「自分らしさ」と言い換えているのではないかという気がするのだ。もちろん、既成の「らしさ」が「学校化」した社会の中で大きな抑圧になっている可能性はあり、その意味で「自分らしさ」志向は正しい。他方、すでに信じるに足る「女らしさ」「若者らしさ」などが崩壊しているため、「自分らしさ」しか信じようがないという状況もあると言うこともできる。
そういえば、若者にインタビューしていてよく耳にするもうひとつの言葉に「フツーでいいです」という言葉がある。自分らしさ、自分に似合うことをこれだけ強く求める反面、じゃあ、どんなものがいいのかと聞くと「フツーでいい」と答えるのである。
また、自分の嗜好を表す言葉を聞くと、「個性的」「先進的」「人と違う」といった言葉はまず挙がってこない。むしろそれらは嫌いな言葉である。好きな言葉は「さりげない」「目立ちすぎない」「シンプル」といった言葉である。
そう考えると、現代の若者の求める自分らしさ志向はずいぶん屈折している。それは、1960年代から70年代の若者文化において求められたような、既存の体制からの個人の解放、アイデンティティの確立としての自分らしさではないし、80年代における、消費を通じた自己表現としての自分らしさでもない。
いや、正確に言えば、そもそも、既存の体制からの解放とアイデンティティの確立を求めた若者の多くが、古くさい共同体や役割に束縛されないオールタナティブな生き方を求めたときによりどころにしたものが消費だったのであり、若者は消費を通じて、たとえ擬似的にであれ、自己を確認し、自己を表現し、アイデンティティを確立したかのようにふるまうことができたのである。
ところが皮肉なことに、今では高度に発達した消費社会のなかで、どんな個性も自分らしさも物語もカタログ化されて、シリアルナンバーをふられて大量に陳列されている。もはやわれわれは物を消費することでは自分のアイデンティティを語れなくなったのである。
注1)リースマン『孤独な群衆』(1961 加藤秀俊訳 みすず書房) 内部志向は、典型的には独立宣言後のアメリカの理想を体現した、自助精神に満ちた生き方であるが、しばしば硬直的であり、独善性と排他性に陥りやすい。他方、他者志向は、1940年代以降の消費社会化したアメリカの中から次第に生まれてきた生き方であり、柔和で協調的であるという特徴を持つ。どちらが良いという問題ではなく、あくまで類型である。日本人は、1980年代以降の消費社会化の進展の中で、特に若者を中心として内部志向型から他者志向型へと人間類型に変化が見られたと言える。そうした変化を踏まえた社会論として山崎正和の『柔らかい個人主義の誕生 消費社会の美学』がある。また、1970年代以降の小此木啓吾の一連の「モラトリアム人間」論もアイデンティティ論として貴重である。
注2)たとえば家族問題研究所「情報化と若者のコミュニケーションに関する調査研究」
注3)もちろん実際の東電OL事件の背景はより複合的であろうが、ここでは、多くの有職女性が共感したと思われる「東電OL」という記号について叙述している。実際、佐野眞一の『東電OL殺人事件』には著者の予想を超えて多くの女性読者からの反響があり、佐野はその反響を取材して『東電OL症候群』を書いている。
注4)他方、裕福な専業主婦という地位を獲得できた女性、雑誌で言えば『VERY』の世界に生きる女性にとっては、小倉千加子が看破したように、労働が消費になる(小倉、2004)。主婦とは言っても家事と育児だけではつまらない、とはいえ生活に必要な収入は夫が稼いでくる、だから自分たちはお金にならない仕事をしよう、というわけで、フラワーコーディネート教室やら紅茶教室やらを開くが、当然儲けは出ない。でも、それでいいのだ。VERY主婦にとっては、働くことも消費だからである。
注5)「複数の自分」という考え方については<辻、1999>参照。
注6)「ぷちナショナリズム」は香山リカの造語である。(香山リカ『ぷちナショナリズム』中公新書ラクレ、2002)
注7)カルチャースタディーズ研究所「歩き食べ調査」2003
注8)ある民間企業からの委託で私が行ったグループインタビュー。20代の男女合計10名対象。職業は学生とフリーター。2003年実施。
注9)新人類世代の定義については<三浦、1997、2001、2002>を参照。
注10)団塊世代の子どもについては<三浦、2001、2002>を参照。
注11)土井隆義は「現代の若者たちが実際に感じている個性とは、他者との比較のなかで自らの独自性に気づき、その人間関係のなかで培っていくものではない。あたかも実体のように自己の深淵に発見され、大切に研磨されるべきダイヤの原石のようなものとして感じされている。その原石こそが『本当の自分』というわけである」と述べている。<土井、2003> 本論でも述べたように、若者は仕事も結婚も自分らしくなければならないと信じている。しかし、仕事や相手との関係性のなかで次第に自分らしさを形作ろうとはせず、あらかじめ自分に備わっている(と信じられている)自分らしさに合う仕事や相手を求めるのである。
注12)たとえば『アエラ』2004年5月3ー10日号、『スパ!』2004年4月27日号
注13)1980年代の若者のファッションの考現学的調査記録としては、アクロス編集室『東京の若者』(パルコ出版、1989)を参照。
注14)東京の街頭でのデプス・インタビュー調査。2003年7月(対象者9名)と2004年4月(対象者13名)に実施。詳細は<カルチャースタディーズ研究所、2003><松谷、2004>
参考文献
アクロス編集室、1985、『超大衆の時代』、パルコ
浅野智彦、2004、「多元的自己の記憶と時間意識」、『都市的ライフスタイルの浸透と青年文化の変容に関する社会学的分析 平成13・14・15年度科学研究費補助金研究成果報告書』
小倉千加子、2004、『結婚の条件』、朝日新聞社
土井隆義、2003、『非行少年の消滅』、信山社
カルチャースタディーズ研究所、2003、「増殖するかまやつ女」
松谷創一郎、2004、「若者の自分らしさ志向は本物か?」『プシコ』冬樹社
三浦展、1992、『「豊かな社会」のゆくえ』、日本能率協会マネジメントセンター
三浦展、1997、『新人類、親になる』、小学館
三浦展、1999、『「家族」と「幸福」の戦後史 郊外の夢と現実』、講談社
三浦展、2001、『マイホームレス・チャイルド』、クラブハウス
三浦展、2002、『これからの10年 団塊ジュニア1400万人がコア市場になる!』中経出版
辻大介、1999、「若者のコミュニケーションの変容と新しいメディア」『子ども・青少年とコミュニケーション』橋元良明・船津衛編、北樹出版
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