|
consumption011 80年代消費社会論の検証
*この原稿は出版社の草思社のPR誌『草思』のために書かれた原稿ですが、実際にはページ数の都合でこれを短く、かつ品良くしたものを載せます。こっちのほうが面白いのでホームページに掲載します。
1980年代の消費社会を牽引したパルコで「アクロス」という消費イデオロギー雑誌を編集していた私に、80年代の消費と都市とは何だったのかを語れというのが編集部からの要求である。私は15年も前にパルコをやめているが、いまだに80年代の「アクロス」の編集長という肩書きのおかげで仕事を頂ける。まことにありがたい話である。それほどに、高度消費社会といわれた80年代という時代は、パルコや西武を抜きにしては語れないらしい。
たしかに当時、パルコは80年代の消費社会の代名詞のように語られたし、今も語られる。私の編集していた雑誌はパルコのようにすれば消費が喚起できるという手前味噌のプロパガンダをする雑誌だった。
しかし他方で、パルコに一介のサラリーマンとして在籍していた私の実感から言えば、実際には、パルコは80年代の最中に消費の主役ではなかったとも思うのだ。なのに「80年代ー消費社会ーパルコ」という連想ゲーム的な言説が今でもまかりとおるところに、日本の消費社会論、消費都市論(そもそもそんなもん、ないか?)の根本的な弱さ、無反省性を感じるのだ。80年代にあれだけ盛んだった消費論を、今は誰も語らないということ自体がおかしいし、また今更消費論を語ると時代遅れのように感じられるという思想状況も、いかにも日本的である。
そういうなかで、東大の北田暁広が2002年に書いた「広告都市・東京」も、何を今更という感覚を呼び起こしてしまうのだが、あえてそれをしようとしたことは評価できる。しかしそこで論じられる「80年代―渋谷―パルコー公園通り」論が、2002年の時点で書かれたものとしてはあまりに80年代のそれから進歩がないことに唖然としてしまうのだ。今80年代のパルコを論ずるなら、本当にパルコは消費社会の中心だったのかということも含めた検証を行わねばならぬのではなかろうか。せっかく「脱舞台化」という興味深い概念を提示しているのに、80年代の公園通りについては無批判的に「舞台」だったと前提してしまっているのは残念と言うしかない。
だいたい、80年代の渋谷、パルコ、公園通りについて論文を書くのに、まだ存命中の(ぴんぴんしてる)私に取材に来ないってんだから、いい度胸してるよなあなんて言ってみたくもなる。少なくとも聞いてから書けば、北田のような俊秀にはもっとよい分析ができただろう。その点上野千鶴子は、パルコを論ずるためにちゃんとパルコの社長に取材に来るから偉いもんだ。なんてったって上野千鶴子は、私がパルコに入社する前から「アクロス」を定期購読してたんだから、さすがである。
北田の渋谷論、パルコ論は、吉見俊哉の「都市のドラマトゥルギー」に接ぎ木したものだが、そもそも吉見の論も少しばかり的外れ、というか教科書的なので、そこに今更のように接ぎ木した北田の論が時代遅れのように見えるのは当然だ。公園通りの全盛期にまだ小学生だった北田に実感を持って公園通りが語れるはずもない。北田は柏木博を引用して、公園通りを歩く人々は「自らの欲望を、『パルコ』の“文化”によって管理され」ていくことになると書いているが、本気でそんな風に考えているのだろうか? 消費を通じて権力にからめ取られる現代人がどうとか、パノプティコンがどうとか、何を論じたって最後はそういう予定調和的なカルチュラル・スタディーズだかグローバリゼーション論だか知らないが、そういう理論に納めちまえばめでたしめでたしっていうところが気に入らないのだ。それってほんとに自分の頭で考えてることになるのかね。数学の定理みたいなあらかじめ決められた法則で現実を説明してるだけじゃないのか。定理に基づいて考えるだけなら学習塾の教師でもできるんで、学者だったら新しい定理を考えろよって思うんだが、どうだろう。
ついでにいえば、この柏木博のパルコ論は1985年の『道具の政治学』(冬樹社刊。編集はその後『GS』を編集する荻原富雄)に書き下ろされたものである。当時まだ「左翼的」だった柏木は菅孝行(懐かしい名前だ!)が『現代の目』(懐かしい名前だ!)に書いたパルコ論を紹介している(広報担当も兼務していた私は渋谷の大盛堂でそれを見つけて購入した)。いわく、「消費する私とは、パルコの戦略の奴隷にほかならない」、周辺の店舗もまた「自らすすんでパルコ化し、パルコ的コードに同調する」、渋谷では「一木一草」までがパルコ的になるのであり、「パルコの非暴力的暴力の構造」は「天皇制と似ているではないか!」。いやはや。
そして柏木は書く。「パルコは、周辺の店舗をとり込み、自らのイメージに染め上げ、都市全体を広告的空間にしてしまうことに成功したのだ。まさにパルコは一木一草にいたるまで、自らのイメージで都市を虚構の広告空間にしていしまったのである。そしてそれはたしかに『天皇』の象徴的機能に似ている」。「わたしたちはパルコが産み出した広告的空間(都市)を散策することによって、パルコの文化を身に付け、とどのつまりは、自らの欲望を、パルコの文化によって管理されつくされてしまう。欲望こそ、わたしたちの存在の根源にかかわるものであってみれば、パルコの文化戦略は、まさに天皇制と似て、徹底した非暴力的暴力だと言わねばなるまい」。はあ、そうですか。クリスタル族の闊歩した80年代は、他方ではまだこんなに左翼的な言説がまかりとおる時代でもあったんだねえ。
80年代はイデオロギーの終焉の時代だったが、先に見たように今から見れば信じられないくらい教条主義的な左翼的言説が残存していた時代であり、今や通販雑誌にも登場するデザイン好きなおじさんになってしまった感すらある柏木も、こんな評論を書いていたのだ。逆に言えば、教条主義的左翼でなければ、公園通りを目の敵にして論じようなんてことは思いつかなかったのだ(ちなみに私は柏木の愛読者なので、別に悪口を言っているわけじゃありません。時代の変化に対する感慨にふけっているのです)。
しかし、こうした「左翼的」パルコ論が指弾するように、パルコが本当に空間を虚構化したんだろうか? 少なくともパルコの内部にはそういう思想はなかった。なかったというのは言い過ぎかもしれないが、戦略的じゃなかった。だって、そもそもパルコはディズニーランドみたいな空間が嫌いだったんだから。
「ディズニーランドに住んだら気が狂う」、当時のパルコの社長の増田通二は藤原新也との対談で言っている(『東京の侵略』パルコ出版、1987)。ショートケーキハウスの建ち並ぶ住宅地の気持ち悪さも指摘している。そういう感性の持ち主が都市の虚構空間化、ディズニーランド化を進めるだろうか?(ついでにいうと『東京の侵略』は郊外化をあおった本だという人がいる。たしかにそういう効果をこの本は持った。しかし郊外化をあおるためだけの本に藤原新也をのせるだろうか。よく考えてほしいものだ。)
菅や柏木や吉見や北田は、まるでパルコが「1984」のグレートマザーか、「トゥルーマンショー」のクリストフのように、天上から人々を監視し、支配していると思っているらしい。が、そんなこと、ほんとに思ってるなら、SF小説の読み過ぎだ。
公園通りを歩くと人々はパルコの思うままに行動するって彼らは言うけど、じゃあ、柏木さん、吉見さん、あなたがた、公園通りを歩いたことあるの? 歩いたらパルコの思う通りにパルコでたくさん買い物したくなりました? ならないでしょう。なるわけないよ。そんなに簡単に人間がコントロールできるわけない。え? 僕はインテリだから簡単にパルコの言うとおりにならないけど、バカな一般大衆はなるんだって? あ、そう。そうかも。でも、普通の人だって思い通りに買い物なんてしてくれないさ。してくれれば、こんなにハッピーなことはないよ、売る側として。
渋谷ではすべてがパルコ的な虚構空間にだったかねえ? パルコの隣にゃ東急ハンズもあるよ。その隣にはルノアールもある。あの、だっさーい、とりわけ80年代には嫌われた喫茶店だよ(今もまだある)。そして20年前の公園通りには、豚のホルモン屋もあって、豚の脳味噌やおちんちんや金玉も食わせていた。そんな公園通りで、すべてがパルコ的な空間になっていたって言えるのかねえ? 豚のチンポもパルコ的ですかね?
そういう、自分のパルコ論に都合の悪い現実の公園通りの風景を捨象して、公園通りは虚構の消費空間を作ったとかなんとかいうのはまったくナンセンス。そのナンセンスなパルコ論の上に、20年前の公園通りの実態なんか知るはずのない若い北田が公園通りは虚構の消費空間だったとか言うのは、まさに「理論の灰色に灰色を重ねた」思想のおもちゃにすぎないんじゃないだろうか。80年代ー消費ーパルコというクリシェを批判的に検証することなく、そのまま鵜呑みにしただけである。
そもそも私が80年代ー消費ーパルコという図式をあまり信じる気になれないのは、たとえば渋谷パルコパート1の売り上げが1979年にピークとなり、以後89年まで減少し続けたという事実による(その後は知らないが79年を上回ったことはないのではないか)。こういうデータはインサイダーでなければ知りようがない。80年代に売り上げを減らし続けた店を、どうして80年代の消費社会の象徴として語ることができるだろう。
パルコをパルコたらしめた石岡瑛子の広告だって全盛期は70年代後半だ。その後石岡がニューヨークに渡ったため、パルコの広告は80年代にはトーンダウンする。それでも80年代はパルコの時代なのか。
また「アクロス」が今でも毎月続けている公園通りでの定点観測調査によれば、公園通りを歩く人の数は81年がピークだ。81年1月10日、土曜日には女性だけで1時間に何と4678人もの人が歩いた! これが85年以降は次第に2000人を切る月が目立ってくる。バブル景気が始まり、ワンレン・ボディコンのギャルたちが増えた87年は1000人から1500人程度である。全盛期の3割程度なのだ!
社外から見れば、バブル時代はパルコの全盛期でもあったように見えるだろう。しかし実際は反対だ。バブル景気はパルコには逆風になった。なぜか。考えてみれば当たり前だ。誰でも簡単に海外旅行をして、パリやミラノでブランド品を安く買えるようになったのだ。どうして渋谷の公園通りで買い物をする必要があるだろう。百貨店は円高を利用して海外ブランドを買収した。三越にはティファニーもやってきた。どうしてパルコのココ山岡でジュエリーを買う必要があるだろう。世間一般のイメージとは異なり、80年代後半の渋谷パルコは売り上げに苦しんでいたのである。
にもかかわらず80年代がパルコの時代、公園通りの時代だと論じられるのは、おそらく東京ディズニーランドのせいである。菅が教条主義的左翼的パルコ論を書いていた83年は、東京ディズニーランドが誕生した年でもある。開業当初、毎年1000万人を集めたディズニーランドは、パルコよりも虚構的な空間として、消費論、都市論の格好の素材となった。その論の中心にいたのが吉見俊哉だ。吉見はすぐれたディズニーランド論を展開しつつ、じゃあ、日本にディズニーランドのような虚構空間はないかと探したところ、公園通りがあった。そもそも吉見は「都市のドラマトゥルギー」で公園通りを論じていたのだ。そこで90年代に入ってもなお、ますます公園通りが虚構空間として語られるようになったのである。吉見は「地域が育んできた記憶の積層から街を離脱させ、閉じられた領域の内部を分割された場面の重層的シークエンスとして劇場化していく」パルコ的な空間戦略をもっとも純粋な形で実践した『夢空間都市』がディズニーランドだという。しかしそれはどう考えても順番がおかしくないだろうか。東京ディズニーランドは83年に開業したかも知れないが、カリフォルニアのディズニーランドは55年に開業しているのだ。仮にあくまで東京ディズニーランドだけを語るとしても、パルコ的な空間戦略と東京ディズニーランドのそれとは、確かに似ているが私の実感と経験から言えば本質的に異なるものだ。
そもそも吉見が本格的にディズニーランドーパルコ論を書いたのはセゾングループの出版社リブロポートから出された『セゾンの歴史 ゼロの修辞学』においてである。柏木も88年にパルコ出版から本を出す(『電子デザインの詩学』)。吉見も柏木も「自らの欲望を、パルコの文化によって管理されつくされてしま」ったのだろうか。「自らすすんでパルコ化し、パルコ的コードに同調」したのだろうか。ミイラ取りがミイラに? そんなことはあるまい。
むしろ、反「80年代―消費社会ー渋谷―パルコー公園通り」的なものをすら内包しているのが、実際のパルコという会社なのだ。おそらく吉見や柏木はそのことに気が付いたと言うべきだ。
吉見や北田は、『パルコの宣伝戦略』(この本のための下調べ作業を私もしている)をパルコ論のほとんど唯一の論拠にするが、パルコ(あるいは増田、アクロスなど)には他にも多くの都市論がある。これらよく読めば、むしろパルコは、反パルコ的、反消費的なものを排除するのではなく、むしろそれらを積極的に受容するのが本当の都市だという思想に強く裏打ちされていることにはすぐに気が付くはずだ。蠅も蚊も殺虫剤で殺して、花壇の土を掘り返しても虫一匹もいないディズニーランドとはちがう。カラスもホルモン屋も都市の一部であり、都市の一部であると考える。それがパルコの考える都市だ。
若者だけがくればいい、老人は来なくて良いという、パルコの顧客戦略がきっと誤解の元だったのだろう。つまり、異物を排除するのがパルコだという誤解が生まれた。しかしターゲットを絞った町と、異質な人々を排除する町というのは違う。公園通りは、ターゲットを絞った町であったが、異物を許容する町でもあった。
社員である私は、そうした中途半端な戦略に疑問を感じていた。本当に公園通りを消費の虚構空間にするのなら、公園通りに似合わない店はどいてもらえばいい。渋谷区役所に働きかければ、そういう街づくりだって可能だったはずだ。東京ディズニーランドは、舞浜の駅や周辺のホテルまでディズニーランドの一部にしてしまう。しかしパルコはそこまでの徹底した虚構空間づくりには関心がなかったのだ。パルコは80年代に大きく注目された企業だが、その根底にある思想はきわめて60年代的である。ヒッピー的であると言っても良い。パルコの一号店が池袋に誕生したのが1969年だというのは象徴的だ。若者の反抗のエネルギーを組織化する。それがパルコ文化だった。既成の文化、ファッションに従うだけでなく、新しい文化やファッションやライフスタイルをつくり出す。そうしたことにパルコは積極的だった。
だからこそ、反抗のエネルギーは反体制運動に向けるべきだと考える教条主義的左翼にとっては非暴力的暴力なのだ。だが、反抗のエネルギーが大好きだという点で、両者は共鳴しあうのである。柏木が「寝返った」のはそれがわかったからだろう。
パルコ、西武といえば堤清二だけが脚光を浴びるが、実はパルコという会社で最初から指揮を執っていたのは増田通二という男である(私が入社した82年には専務、その後社長、会長となる)。増田の存在はほとんど一般には知られていないが、パルコはセゾングループの中で一種の治外法権のような会社であり、増田がやりたい放題をする典型的ワンマン会社だった(だから政治学者の御厨貴氏が堤清二にインタビューしたとき、パルコについて聞くと堤氏は発言ができず、増田を紹介したという)。
この増田は路地の人だ。神楽坂生まれで、街に光と影があることを好む。その意味でも光だけの世界である、影さえ人工的な空間として計画してしまうディズニーランドとは異なる。
そもそもなぜパルコは劇場を作ったか。それは文化が金になるとか、文化でイメージアップして客を集めるためではない。単に増田が芝居好きだったからだ。旧制高校時代に演劇部であった増田は、三度の飯より芝居が好きだ。だからパルコに劇場を作ったのであり、文化戦略だなんだというのは、あとづけの論理だ。ところがそのあとづけの論理に学者やジャーナリズムが飛びついたというのが実態に近い。
絵描きの息子である増田は絵も好きだ。だからまたギャラリー経営や美術出版も好んだ。パルコ自体は不動産業として非常に儲かるビジネスモデルだったので、出た利益を劇場やギャラリーや出版につぎ込んでもまったく問題がなかった。利益をすべて新規事業につぎ込めば、パルコは今頃全国に50店舗あったかもしれないし、社員の給料につぎ込めば、私たちの年収は5割アップしただろう。
だからこそ私は思うのだ。渋谷パルコ、公園通りは、いつどうやって80年代消費社会の象徴となったか。たしかにパルコは「アクロス」などを通じて自身を先端的消費者の集まる店としてプロパガンダした。しかしパルコは一つの企業として、80年代というイメージで固定されることを望まないはずだ。つねに新しい店として売上げを伸ばしていきたいからだ。だから、忘れてはならないのは、パルコを「80年代」という時代の「消費」という空間の問題と結びつけて定着させたのは、吉見らの学者や評論家たちであるとは言えないだろうか。しかも彼らは、事実がそうだからという以上に、そのように語りたかったからそのように語ったのではないだろうか。
公園通りが、広告化された空間であることは間違いない。しかしそれはすべての通行人に魔術をかけ、知らぬ間にパルコで消費することを目指したものであろうか。増田は言ったことがある。「HANAKOを読んで、買い物だけしてる、そんなOLは頭が空っぽだ。」ある意味で、増田はパルコで洋服を買うだけで満足するような女性を好んではいなかった。増田がパルコに本当に来てほしかったのは、芝居を見に来る客や、ギャラリーに来る客や、日本グラフィック展に応募する美大生などである。だから増田はパルコ出版で数々の優れた美術書、演劇書を発行した。素晴らしい広告、テレビCMをつくった。そこから多くの才能が巣立った。
なぜパルコはウォールペインティングをしたか。それは公園通りを消費の虚構空間にするためではない。絵描きの息子でもある増田は、絵が好きだったのだ。高校教師をしたこともある増田は、美術や演劇を通して若者を育てるのが好きだったのである。だから美大生にバイトをさせてウォールペインティングをさせた。そうやって若者が街に関与しながら、街が成長していくことを好んだのだ。
もちろんそうすることでパルコや公園通りのイメージがアップすることも念頭にあったことは間違いない。しかしイメージアップや売り上げアップのための手段として街をつくったというよりも、美術や演劇が好きな若者が集う面白い街を作りたいという気持ちから行われたと言った方がはるかに正しい。
増田はそういう妄想の人だった。ついでにいえば、渋谷パルコパート1のイメージの原型は何だと思われるか? なんとそれはガウディのサグラダファミリアなのだ。信じられますか。ひどい妄想でしょう? 頭おかしいよね。
北田も引用している、パルコ出店前、渋谷・区役所通りというさびれた通りを増田と堤が歩きながら、ここはなにかにおうねえと言って顔を見合わせたという逸話は、社員の間では、へそが茶を沸かす笑い話だと思われていた。真っ赤な嘘ではないだろうが、そんなプロジェクトXみたいな逸話はあとからの作り話だろう。
いずれにしても、そこににおったのは金の匂いではない。おそらく増田は、曲がった坂道の上に教会のあるような街を夢想したのだ。宗教学科出身の増田は夢想家でもあった。そして神楽坂のような、坂があり、路地がある、色気のある街を好んだ。渋谷は元々花街だ。そして坂の街でもある。増田の原風景に訴える街だったのだ。
店の名前にイタリア語で公園という、明るい、開放的な名前を付ける増田は、たしかにラテン的な陽気さをもち、年をとってもいつまでもいたずら小僧のような人間だった。
それに対して堤清二はアングロサクソン的に陰鬱であり、店の名前にもWAVE(波)、SEED(種)といった意味ありげな英語を好む(おそらく「波」という名前に込めた意味は、堤独自の「流通波打ち際論」、つまり、製造業などの川上産業ではなく、川下の、最も消費者に近い流通業こそが最も消費者を理解しているのであり、流通業から製造業を変えていくという『革命』である)。店の外観、インテリアも冷暗色だ。特に堤が最も好んだ六本木WAVEは高速道路の橋桁の前の北向きのビルだ。ビルの色は灰色であり、WAVEのロゴは黒い。およそ人を集めて興奮させて物を買わせるというビルではない。WAVEの中にはモーツァルトのCD、LPだけを無数に集めたコーナーがあり、堤は南麻布の自宅からほど近いそのモーツァルトの売り場に行くことを楽しみにしていたという。
堤と増田のつきあいは古い。絵描きであった増田の父のパトロンが堤康次郎であり、その関係で増田は若い頃、康次郎の秘書をしていたこともある。清二とも幼なじみのような関係で、旧制中学、旧制高校、そして大学と同窓である。
パトロンの息子とはいえ、いたずらっ子で、親分肌の増田は、清二にオナニーの仕方を教えたという。そういうように精神的には増田の方が優位に立った関係だから、増田が30代になって堤に請われてセゾングループに入ってからも、増田は堤をグループ内で唯一「おい、堤」と呼び捨てることができる人間だった。
このように、まさに陰と陽の二人が、同じような店をつくり、同じような街を作るわけがない。セゾン劇場のあるホテル西洋銀座のある土地に、堤は最初、パルコを出そうとした。しかし増田は、あんな陰気な土地には出たくないと断った。たしかにその土地も、六本木WAVE同様、北側に高速道路がある土地だった。
だから、パルコがセゾングループの文化戦略企業だと言われると、私はなにかしっくりこないのだ。たしかに資本系列的にはそうだ。しかしパルコはセゾンの文化戦略を推進するために仕事をしていたのではない。ただ、やりたいからやっていたのだ。
こういう事情を知らずに、外からパルコやセゾンを論ずる人は、あたかもパルコが文化人経営者堤清二のご託宣によって一から十までつくられたものであり、その魔法のようなご託宣によって公園通りを歩く人々が操られているなどと言い出すのであろう。
少なくともパルコの増田は、消費者に魔法をかけてあやつろうという思想の持ち主ではなかった。おそらく堤もその点は共通しているだろう。大正生まれの二人は、国家が個人の思想や感情をコントロールする時代の怖さを知っている。
そういえば、パルコから一時期「BH」という雑誌が出ていたことがある。1984年頃の創刊だ。この雑誌のコンセプトは「のりつつ、さめる」だった。本論の文脈から見たとき、このコンセプトは非常に興味深い。たしかにパルコの魔法に乗って欲しい。それは商売だから当然だ。しかし他方で、さめてほしいのだ。魔法にかかったままの状態にあるのはまずいと考えるのが、パルコの考え方だったということである。
さて、このように「語られたパルコ」と「実際のパルコ」には少なからぬ距離がある。しかしその距離がどれほどのものであるにせよ、柏木、吉見、北田らが展開してきた公園通り論は、今まさにその意味を問われる時代が来ているように思える。それは今また渋谷パルコ、公園通りの時代が来ているということではない。むしろ、逆である。北田が書いているように、柏、大宮、町田といった郊外拠点に成立した「プチ渋谷」に自足する若者たちは、もはや「本当」の渋谷に来なくなったのだ。
さらにいえば、もっと地方に住んでいる若者も、あえて東京に行きたいとは思わなくなっている。地方にも「プチ渋谷」はあるからだ。
しかし地方のプチ渋谷は仙台や盛岡などの都市の中心部にあるのではない。それは田圃の中にある。田圃の中のイオンショッピングセンターなどの巨大ショッピングモールの中にあるのだ! 周囲に何もない田圃の中に忽然と現れるショッピングモールの姿は、渋谷公園通りのパルコよりもはるかに東京ディズニーランドに近い。強い歴史の痕跡を持たぬ埋め立て地に蜃気楼のように現れたディズニーランド。それを複製したかのようなショッピングモールが今まさに日本中に増殖している。
かつて柏木はパルコを論じてこう書いた。「パルコは過去に例がないほど、実に見事なまでに都市全体を自らの、広告装置と化し、外部を消滅させてしまった。」
あるいは先ほどの吉見の言葉、「地域が育んできた記憶の積層から街を離脱させ、閉じられた領域の内部を分割された場面の重層的シークエンスとして劇場化していく」という指摘は、渋谷パルコ公園通りよりもむしろまさに均質なファストフードのように日本中に増加しているショッピングモールにこそ当てはまるのではないだろうか。
吉見は「都市のドラマトゥルギー」の中で朝日新聞社が1979年に行った渋谷調査を引用し、当時渋谷を歩いていた女性の31.3%がノンノの読者であり、さらに男性の23.2%がポパイの読者であったことを指摘し、カタログ雑誌と呼ばれた雑誌とパルコ的な消費空間が結びついてその時代の消費文化が形成されたことと書いている。まあ、それは吉見に言われるまでもない定説だ。
では79年に渋谷を歩いていた、おそらくは20歳前後を中心としたはずの若者たちはいまどこで何をしているのだろう。彼らはいま45歳前後になっている。
私が昨年、1都3県の居住者を対象に行ったアンケートによれば、新人類世代(60−65年生まれ=満39−44歳)でイオン(ジャスコ)が好きだという者は男女合わせて31%いた。そしてイオンが好きだという新人類男性のうち20歳前後のころポパイを読んでいたと回答したのは40.5%、イオンが好きでないという男性では23.8%だった。同様に、イオンが好きだという新人類女性のうち20歳前後のころノンノを読んでいたと回答したのは58.0%、イオンが好きでないと女性では44.0%であった。驚いたことに、イオンが好きな人の方がかつてのノンノやポパイの読者だったのだ。
このことは、パルコ的な消費スタイルと、ディズニーランド的な閉鎖的空間が結合したショッピングモールにおいては、吉見がかつて「パルコ的な空間戦略をもっとも純粋な形で実践した『夢空間都市』がディズニーランドだ」といった以上の純粋な形で「外部」のない消費の虚構空間が完成されているということを示しているのではないだろうか。
ショッピングモールは1年365日24時間全館冷暖房完備の人口空間だ。公園通りのような坂道はない。ひたすら平らで清潔な「道」だ。ナンパをしたり、水商売でのバイトを誘うあんちゃんもいない。本当の都市にある危険で不潔な要素が徹底的に排除されている。
しかし、不幸なことに、そこには、突然赤ん坊にナイフを突き立てる異常な若者もいる。幼女を連れ去ろうとする若者もいる。そこはリアルな都市の顔をしていないが、実はリアルな都市以上に危険に満ちているのかもしれない。リアルな都市から危険で不潔な要素を排除したバーチャルな空間だからこそ、排除されたものが、そこに復讐に来るのかもしれない。
だとしたらわれわれはまさにこのショッピングモールをこそ、新しい消費の文化として、いや、解決すべき問題として論じなければならないだろう。
consumption メニューへ戻る
|