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consumption007 「コンビニ文明」の行方
1. 補完的だったコンビニの役割
本稿では、コンビニというお店やビジネスそのものというよりも、コンビニに象徴される、あるいはコンビニが先導してきたとも言える現代の消費社会、および消費社会における人間の欲望の変質について書いてみたいと思う。
コンビニが日本に登場したのは1974年のセブンイレブン豊洲店が最初だという。しかし本格的に店舗数が増え、どんな街にも必ず1つはあるという状況になったのは1980年代に入ってからであろう。それでもまだ当時は、自分の家の近くにコンビニはなくて、コンビニに行くために駅から遠回りをして帰るということもあった。
それが自分の家から5分以内にかならずコンビニがあるという状況になったのは、1980年代後半以降であろう。もちろん地域差はあるが、東京でずっと暮らしてきた私の実感ではそんな感じだ。
こうしたコンビニの普及状況に対する体験の差によって、世代の差も生まれてきたはずだ。80年代前半に独身でコンビニを利用したのは、私くらい、つまり1950年代後半生まれだろう。実際私は毎日のように会社の帰りにコンビニに立ち寄った。しかし私より上の世代は独身時代にコンビニを利用する機会はまだ非常に少なかったはずである。
しかし、80年代前半までのコンビニはまだ営業時間が短かった。セブンイレブンの名の通り、どこのチェーンも午前7時から午後11時までが基本であった。そもそも、セブンイレブン、ローソン、ファミリーマートといった大規模コンビニチェーンの力は今より弱く、地元の小規模チェーンがたくさんあったし、酒屋をベースにしたミニスーパーも多かった。今やコンビニの売り上げの多くを占める弁当も、当時はあまり重要ではなく、弁当を買うときは弁当屋のチェーン店で買う方が普通だった。つまり今ほどはコンビニがわれわれの生活の中で大きな地位を占めていなかったのである。
言い換えれば、この世代にとってのコンビニはまだあくまで生活を補完するものであったと言える。本来は昼間にスーパーや普通の商店で買えればいいのだが、一人暮らしをしていてその時間がないという人が利用者の中心だった。社会の主流は、結婚している人、家族と同居している人であり、そういう人には、コンビニはあまり必要がなかったのである。
2 晩婚化をコンビニが促進した
ところが80年代後半以降、コンビニは急速に店舗数を増やす。地価高騰により古い商店がつぶれてマンションに建て替わり、そのマンションの1階には必ずと言ってよいほどコンビニが入った。かつ、この時代にはコンビニはほぼ全店で24時間体制になる。
こうなると、コンビニは生活を補完するもの以上の意味を持ってくる。昼間に買い物ができないからコンビニに行くという消極的ニーズに加えて、いつでもコンビニに行けば何か楽しい物があるからコンビニに行くという積極的ニーズが拡大してきたのである。
ビジネス的に見ても、一人暮らしの需要に対応するだけでは成長が期待できない。一人暮らしでない若者も、若者でない人もコンビニの顧客にするには、コンビニの役割を生活の補完的役割から、さらに大きなものにする必要があった。チケットの予約、宅配便の受付、公共料金の振り込みなど、物を買うだけでなく、多くのサービスがコンビニで受けられるようになった。
この時代にコンビニを利用したのは1960年代生まれである。マーケティング的に言えば新人類世代に当たる。新人類世代が20代の時期はちょうどバブル期。新入社員のボーナスが200万円などという時代であった。だから新人類世代は、ディスコだカフェバーだといって夜遊びを盛んにした。必然的に帰りは深夜になる。コンビニがますます必要になった。
新人類世代は晩婚化が進んだ世代でもあるが、晩婚化のひとつの背景には、コンビニの普及と24時間化があると私は思っている。一人暮らしでも、コンビニがあればいつでも食べ物を手に入れることができるようになったからだ。昔なら、11時以降に家に帰った男たちは、奥さんにお茶漬けを作ってもらいたいと思っただろう。だから早く結婚したいと思った。しかしコンビニの24時間化により、男たちは夜遊びの後でも気軽に食べ物を買えるようになった。一人で食べるのは寂しいかもしれないが、とにかく食べ物にはありつけた。その分、結婚したいと思う気持ちは減ったはずである。
3 コンビニが脇役から主役になった
新人類世代までは、基本的にはコンビニを大学生になってから、あるいは一人暮らしをするようになってから利用した世代であると言える。ところが、その下の団塊ジュニア世代になると、小中学生のときからコンビニを利用してきた世代である。
団塊ジュニア世代は一般的には1970年代前半生まれを指す。彼らは、小学校5、6年生になると夜の9時、10時まで塾に通うようになる。そして塾の帰りにコンビニで立ち食いをした最初の世代となった。そして彼らが中学、高校と進むにつれて、ますますコンビニは増えていった。そういう意味で団塊ジュニア世代は筋金入りのコンビニ世代であり、彼らの食欲がコンビニの成長を支えてきたと言っても過言ではないだろう。
また団塊ジュニア世代は、多くが郊外の新興住宅地、ニュータウンで生まれ育った世代であるから、彼らにとっての原風景は駅前商店街のようなものではなく、ロードサイドのスーパーでありファミレスでありコンビニなのだ。最初から人工的な生活環境で育ったのである。
こうして見ると、団塊ジュニア世代およびそれ以降の世代にとっては、コンビニはすでに生活の中で補完的、脇役的な存在ではなくなり、むしろコンビニこそが生活の場で主役の地位に占めるようになったと言えるであろう。ついにコンビニと既存業態の間で「主−副」の逆転が起きたのである。
この「主−副」の逆転現象は、ビジネス的には単純な競争の結果であって、さほど面白い話ではないが、ドン・キホーテのような24時間営業の何でも雑貨店(?)が登場したのも、スーパーも夜11時とか深夜2時まで営業するようになったのも、コンビニへの対抗であることは間違いない。つまりコンビニ以外に「コンビニ的なるもの」が増えたのである。
そこで私の関心を引くのは、コンビニおよびコンビニ的なるものが生活の中心、主役であるような社会が、人間の意識にどのような影響を及ぼすのかという点である。24時間、365日、そこに行けば大概の物が手に入るという状況。食べ物について言えば、弁当、おにぎり、サンドイッチ、お菓子、デザートなどが揃い、しかも、大寒の日の深夜2時であってもアイスクリームが売っているという状況。こういう状況を当たり前だと思って育った世代がもう20代になっている。彼らの意識、無意識、価値観、欲求はどう変化しているのであろう。
4 食べるのが面倒くさい
私は以前、ある生活研究シンクタンクの研究員のコメントを新聞で読んで驚いたことがある。同研究員が高校生の食生活を調査したとき、高校教員の意見として「食べることを楽しいと感じない、面倒と思う子が増えてきた」という声が目立ったというのである(東京新聞2003年1月13日)。
これには驚いた。しかし、この話を知り合いの食品メーカーの人にしたら、食べるのが面倒くさいという感覚が出てきていることは食品業界では5年ほど前から常識だと言われ、またまた驚いたのである。
しかし、よくよく思い出してみると、今の若者はきっと食べることに関心がないのだろうなと思ったことは私にもあった。私は若者の行動を観察するのが仕事の一つだが、その私が近年関心を持って調査しているのが、いわゆる「歩き食べ」だ。あの、電車の中でも歩きながらでも、ところかまわず物を飲み食いする、あの行儀の悪い行動である。なぜ若者は(最近は若者だけではないが)歩き食べするのか。いろいろ理由はあるだろうが、ひとつの理由は、食べることが面倒くさいのだろうと思ったのである。
食べることが好きで、おいしい物が食べたいと思えば、それなりの店に行って、それなりのお金を払って、それなりの物をゆっくり落ち着いて味わって食べるだろう。それをしないで歩きながら食べるというのは、そもそも食べることに関心がないと考えられるのだ。
実際、たとえば一時期大ブームだったイタめし屋には今、あまり若者は見かけない。いるのは30歳前後の女性だ。20歳前後の若者はほとんどいない。
現代の若者は、極端に言えば、できれば食べないで済ませたいのである。が、どうしても腹はへるので仕方なく食べる。仕方なくしているのだから、楽しい必要はないし、歩きながらでも十分だ、というわけである。
その意味で、同じように歩きながらする行動でも、歩きたばこやウォークマンとは異なる。それらはたばこや音楽が好きだからするものだ。しかし、歩き食べは、食べるのが好きで好きでたまらないから、歩いているときも食べたいというのではない。むしろ、食べるのが面倒だから、歩きながらで済ませているのであろう。
こうした仮説から、私は2003年6月から8月にかけて、都市空間とコミュニケーションの問題を研究する大学院生の協力を得て、80人ほどの若者に歩き食べについての調査をした。
結果は今集計中だが、今のところ明らかになっているのは、歩き食べをする理由の大多数は「時間の節約」であり、歩き食べをする物を買う場所は圧倒的にコンビニであるということである。また「食べるのが面倒だ」と考える者も全体の1,2割いた。
学生やフリーターが多い今どきの若者が、そんなに時間の節約をしなければならぬほど忙しいのか、私はかなりいぶかしく思う。おそらくは、家で寝ているかぼーっとしている時間が多く、そのためバイトや授業にぎりぎりで出かける。よって食べる時間がないというだけであろう。が、とにかく答えはそうである。
話が少しそれたが、このように、今の若者にとっては、歩きながら済ませるのでいいと思うくらいしか、食への関心がないのだ。
5 食べ物が溢れているから食欲がなくなる
翻って、私自身の高校生時代を思いだしてみると、当時は今ほど食べ物にバラエティがあったわけではない。しかも私は地方に住んでいたので、スパゲティといえばナポリタンかミートソースしかなかった。ピザなんて見たこともなかった。
昭和ヒトケタ世代の私の母は、家でハンバーグをつくることはなく、煮物など伝統的な日本食が多かった。だから特に食事が楽しいと思うことはなかったと思う。まあ、日頃はとんかつやコロッケで十分満足していた。寿司などは年に3,4回しか食べなかったし、すき焼きも冬に2,3度程度だったので、ずいぶんご馳走であった。焼き肉なんてものは就職してから上司に連れられて初めて食べた。食べるに困る生活ではないが、まだ食べたことがない物が世の中にたくさんあった。だから、食べるのが面倒くさいなどと思うことは高校、大学時代にはまったくなかったと記憶する。
ではなぜ今の高校生は、食べるのが面倒くさいと考るのか。たしかに今の若者は何をするのも面倒くさがる。だから食べるのも面倒なのだとは言える。しかし食欲は自然な欲求だ。それすら面倒くさがるのでは、人間がおかしなことになるんじゃないかと、古い世代なら考える。
そもそも面倒くさいという感覚はどういうときに現れるのか。いうまでもなく、その行為自体が複雑なときでは必ずしもなく、単にそれをしたくないときである。とすれば、つまり現代の若者はそもそも食べたくないのであろう。
では、なぜ食べたくないのか。ダイエット情報が行き渡り、やせたい人が増えているからという理由もありうる。が、そもそも食べ物が溢れすぎているために、かえって食欲が減退しているのではないだろうか。
欲求の基本的な源泉は不足である。人は足りないものは欲しいと感じる。有り余っているものは欲しいと感じない。ここで食べておかないと今度はいつ食べられるかわからないと思えば、多少まずい物でもよろこんで食べるが、食べ物なんていつでも手に入ると思えば食べる気が薄れるのだ。
コンビニだけでなく、ファミレスにもファストフード店にもデパ地下にも、そして駅のプラットフォームにすら、いつでもどこでも食べ物は溢れている。そういう環境が、かえって食欲を減退させているのかもしれない。
私の調査でも、何を食べようか考えることが面倒くさいとか、どの店に入ろうか考えることが面倒くさいという意見があった。食べ物が多様に大量に目の前に存在し、それを自由に選択できるにもかかわらず、むしろそれだからこそ、かえって食べることが面倒になっているのだ。
それはちょうどわれわれが、情報社会の中で、過剰な情報の洪水を処理することができずに、ただ流れている情報をぼんやりと眺めるしかできないでいる状況とよく似ている。欲しいとも言わないのに、つまらない情報が大げさな演出を施されて24時間垂れ流されている。いや、ものすごい圧力で放出されている。ピンク色の巨大な「だが!」とか「しかし!」といった文字が踊る画面をわれわれは否応もなく見せつけられる。そういう情報環境の中で、われわれは情報が欲しいという気持ちをむしろ阻喪されるだろう。食についても、それと同じ状況が起きているのだ。
蛇足を加えれば、最近の若者は食欲だけでなく性欲も減退しているとも言われる。あくまで俗説の域を出ないが、アダルトビデオやインターネット上のアダルト画像の氾濫のために、かえって性欲を喪失したのかも知れぬ。
6 食欲が不快に感じられる
それはともかく、さらに言えば、コンビニだけでなく、現在の生活環境全体がつねに食欲を刺激しつづけているために、食欲が不快なものとして意識されるという状況もあるかと思われる。
街を歩けば、さあ、おにぎりだ、おでんだ、サンドイッチだ、肉まんだ、というメッセージが街中でわれわれを刺激している。テレビにも雑誌にも、食に関する情報は氾濫している。冷静に考えれば異常なほど大量の食欲刺激がなされていると言える。こういう中で、正常な食欲を維持し、正常な食生活を営むことは難しいであろう。
若者は(若者だけはないが)、まず自分が腹がへったと「自発的に」感じて物を食べるのではなく、至る所に偏在する食物によって欲求を外側から刺激されて、ああ、食べたいなと思うだけだとも言える。そうでなければ、本来、夜中の2時に突然いなり寿司が食べたくなることはあまりないはずだ。
その食欲は自然なものではなく、明らかにメディアを通じてつくられている。そして、刺激されるがままに物を不規則に食べる。だからいつもある程度空腹が満たされている。本当に腹ぺこになるまで我慢したことはあまりない。逆に、本当の満腹感、おなか一杯に食べたという満足感、幸福感も味わったことがないのである。
そうなると食欲は、食べても食べても決して満たされることのないもの、いつ何時自分に襲いかかってくるかも知れない不快なものとして意識されるようになるのだ。それが、食べることが面倒くさいと思うようになった根本的な理由であろう。
7 コンビニが動物化を促進した?
批評家の東浩紀は『動物化するポストモダン』の中で、哲学者のコジェーヴを引用しながら、動物には欲求はあるが欲望がないと言っている。欲求とは、たとえば空腹を満たしたいというように、欠乏を充足しようとするものである。
対して、人間が持つ欲望とは、単に欠乏を充足しただけでは満足できず、他者を必要とする。食で言えば、もっとおいしい物が食べたいとか、どこそこの有名レストランで食べたいとか、それを人に自慢したいとかいったことが欲望だ。
東の論に従って極論を言えば、現代の若者には欲望がない。欲求があるだけだということになる。腹がへったから何か食べたい、特においしくなくてもよい、まずくなければよい、早く何か食べたい、だが食べるのは面倒だ、じゃあコンビニでいいや、地べたに座って食べればいいやということになるわけである(私の仕事場の近くのセブンイレブンには昼になると調理学校の学生がたくさん来る。彼らはみな、弁当を買って地べたに座って食べている。こういう奴らが調理師になるのかと思うと、私は生きるのが嫌になる)。
見栄に縛られた欲望に絡め取られるのはくだらないという考え方もあり得る。が、欲望が他者の視点を必要とするものだとするならば、どうせ食べるなら、ちゃんとしたところで、ちゃんとしたものを、マナーにのっとって食べたい、なぜなら私は人からちゃんとした人間だと思われたいからだと考えるのも、一つの欲望であろう(ここでちゃんとしたところで、ちゃんとした物を食べるというのは、決して高級なおフランス料理を食べるという意味ではなく、そば屋ではそばを、居酒屋では酒を、それぞれの流儀にのっとってうまそうに食すという意味である)。
逆に、人からどう思われようと、ただ腹がへったから何かを腹に入れたいというだけの欲求に従って行動するのはまさに動物的であろう。コンビニは、ファストフードなどとともにこの動物化を進めたと言えるのではないだろうか。
もちろん24時間いつでもどこでもというライフスタイルを可能にしたのはコンビニだけではない。テレビ放送も24時間化したし、ビデオの普及はテレビ視聴は映画鑑賞の時間的・空間的制約を解消した。ウォークマンはいつでもどこでも音楽を聴くことを可能にした。携帯電話はいつでもどこでもコミュニケーションすることを可能にした。全体として「コンビニ文明」ともいうべきライフスタイルが実現したのだ。このトレンドは今後ますます強まりこそすれ弱まることはない。とすれば人間はますます動物的になるのであろうか?
スタジオジブリ発行『熱風』12号より
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